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「はっ、はぁっ…はっ……は」

足下がよく見えないほどの暗闇を夢中で走っていた。
建物と建物の間は狭いにも関わらず所々に物が落ちており、もうそれに何度躓いたか分からない。
裸足の足は走りすぎたせいで麻痺してしまい、もはや痛みも感じられないが、恐らく切れて血まみれだろう。
斜め前を走るピカチュウがこちらを心配そうに見てくるのに、大丈夫だと小さく頷いて返す。


『私のレッド…おまえはもう私のものだよ』


「はぁっ…はっ」

開かないドア、臭いの消えない部屋、ひとりぼっち、そして夜になると毎晩やってくる…あの人。
もうあの部屋にはいないのに、あの部屋の映像と…あの人の顔が頭に焼き付いて離れない。
それを振り払うかのように強く頭を振る。


『痛い!もうやだぁっ…!!やめ、やめて…!』
『まだ…まだ駄目なのか』
『あぁあぁああっ!!』


振り払おうとすればするほど次々とフラッシュバックする記憶、痛み。
途端に足が竦んで走れなくなってしまい、よろよろと地面に座り込んでしまった。
ピカチュウが驚いて引き返してきて心配そうに見上げてくる。
ごめん、と息も絶え絶えに呟き、なんとか動く手でその小さくて温かい身体に触れる。
よく見れば、すぐ先には明かりの並ぶ通りがあった。
もう路地を抜けるところまで来ていたらしい。
その明かりは、ピカチュウの姿も、そして自分の身体もぼんやりと照らす。
足下を見れば、やはり自分の足が血まみれであることが分かる。
あまりに痛々しくて、次の瞬間に見たことを後悔した。
足に力が入らず、立ち上がれずに途方に暮れていると、触れていたピカチュウがピクリと反応した。
どうしたの、と聞く間もなく耳に女の人の甲高い悲鳴が降ってきた。

「・・・・・」

へたりこんだまま悲鳴がした方を見れば、路地を出た先から赤いドレスに金髪を緩く巻いた女性が驚愕した表情でこちらを見ていた。

「オーナー!女の子が…」

女性はあたふたと横に向かって手を振っている。
誰かを呼んでいるのか。
しばらくすると黒いサングラスに白い口髭をたっぷりとたくわえた男性が横から姿を現した。
その細身と手に持つ杖が、上質そうな白いハットとベストによく似合う。
彼はこちらを見ると慌てて近寄ってきた。

「大丈夫か君!?どうしてそんな格好で…」

そうだった。
自分は裸にシーツをひっかけただけの姿。
そしてそのシーツも散々転んだせいであちこちが見るも無惨に破けてしまっている。

しょうがない。
必要ないと言って着る物は一切与えてもらえなかったのだから。

黙ったままの自分を見て何を思ったか、男性は無言で自分を抱き上げた。

「!?」

驚いて目を丸くする自分を尻目に、男性は路地を抜けて通りへ出る。
自分にひっついたままのピカチュウが電気袋をパチパチと鳴らし威嚇の姿勢を取ったが、男性は静かにピカチュウを手で制した。

「君のご主人を休ませてあげるだけだ。心配なら寄り添っているといい」

ピカチュウは警戒は解かなかったものの、とりあえず頬への蓄電はやめたようだ。
チュウと小さく鳴くと、男性から自分の胸を隠すように身体を大の字に広げてひっついてきた。
男性が苦笑するのが分かる。

「よくできた相棒だ」
「・・・・・」

この人は誰だろう。何故自分を助けてくれるのだろう。いや、本当に助けてくれるのか?
様々な疑問が頭に浮かぶが、それを口に出すだけの元気も、ましてやこの男性の手を振り払う気力も残っていなかった。
だから、ただジッと見つめることしか出来なかった。

「そんな目で見ないでくれ。いや、そんな綺麗な目で見てもらえるなら本望かな?とても美しい赤だ…」
「・・・・?」

赤?何が…?
その時、その男性が何のことを言っているのか分からなかった。

「あぁ、そういえば名乗っていなかったね。こんなナリだが怪しい者ではないんだよ。私は…」






















***



















ピピ…ピチチ…

遠くで聞こえる鳥の歌声。
瞼の裏からでも分かる外の世界の光。

「・・・・・・・・・」

レッドは薄く目を開けた。

「夢…」

ベッドからのろのろと身体を起こせば、レッドが起きたことに気づいたピカチュウが嬉しそうに身体をすり寄せてきた。
まだ頭はぼんやりとしたままだったが、指先でピカチュウの顎下をカリカリとかいてやる。
くすぐったそうに身をよじるピカチュウは幸せそうな鳴き声をあげてもっともっとと催促してくる。
それを見て微笑むと、レッドは枕元の時計へと目を移した。
6時10分前。
まだセットしたタイマーが鳴る前である。
しかし二度寝をする気分ではなかった。

"また昔の夢…"

グリーンと初めて寝た夜も見た、あの頃の夢。
たまにこうやって思い出すが、正直吐き気を催すほど嫌な記憶である。

"でも…もしあそこで拾ってもらってなかったら…僕今頃なにしてたんだろ…"

ピカチュウと戯れる手を離してベッドから抜け出す。
部屋を出るついでに姿見を見れば、眠そうな赤い目と目があった。
ついでに寝癖も発見。

「……弁当つくろ…」

確か豚肉の賞味期限が危なかった気がする。













***















廊下の端に立て掛けてあるダンボール。
半分まで色が塗られた作りかけの看板。
その他よく分からないが取りあえず積まれている用途不明のガラクタ類。
おかげでいつもよりも狭い廊下を歩きながら、グリーンは廊下を横断するように転がった筒をひょいと跨いだ。

「いよいよ明日かぁ~」

廊下を歩いているだけで、学校中がざわざわと落ち着き無い空気に包まれているのが分かる。
4限終了後、グリーンは足取り軽く、パンを片手に屋上へ続く階段を上っていた。

「おーっすレッド~」
「…また来たの?」

嫌がられているのか歓迎されているのかよく分からない声音が吸水タンクの上から降ってくる。
あの日から毎日グリーンは昼休みになるとここへと通っていた。
グリーンがパンの袋を口に加えて梯子を上れば、レッドは相変わらずいつもの定位置で既に弁当を広げていた。
今日はまだフタを開けたばかりなのか、弁当の中身はぎっしり詰まっている。

「おぉ、生姜焼き美味そう~!」

決まり文句のようなこの台詞を言えば、いつもレッドは自分の弁当からおかずを分けてくれる。
しかし、今日はレッドは自分の弁当ケースからもう一つ小さな箱を取り出してグリーンに差し出してきた。

「へ?」
「い、いらなかったらいいんだけど…おかず…作りすぎちゃって食べきれない…から…」

気まずそうに手を引っ込めようとしたレッドだったが、その前にグリーンが弁当箱ごとレッドの手を掴んでいた。

「っ!」
「いる!超欲しい!」

レッドの料理が美味しいのはこの舌で実証済みである。
キラキラした目で見つめられて、レッドは耐えきれずに目を反らした。

「そ、それならよかった…」

グリーンが箱のフタを開ければ、そこには先程目を留めた生姜焼き、そして金時豆に蓮根の煮物が綺麗に並んでいる。

「もうレッドすげぇよ嫁に欲しい」
「僕男だけど…」
「そんくらいすげぇってことだよ」

嬉々としておかずをつまんでいくグリーンを横目に見ながらレッドは自分の弁当をつつく。
早起きして作った弁当は思いの外量が多くなってしまった。
冷蔵庫に入れて晩御飯にしてもよかったが、どうせならいつもパンばかり食べているグリーンに分けてあげようと考えた次第である。
まさかここまで喜んでもらえるとはレッドも思っていなかったが。

「そーいえばレッドのクラスって何やるんだ?」
「何って?」

グリーンの言葉に、ぼーっとしていたレッドはハッと我に返った。
よく見れば先ほどから箸が全然進んでいない。

「何って、明日の文化祭だよ。レッドのクラス何やんの?」
「…えっと、フリマだったかな…」
「おいおい、自分のクラスだろ?」

呆れたように言うグリーンだが、正直レッドのクラスは例外的に文化祭に対するやる気が非常に薄かった。
クラスの出し物も、面倒くさいからいらない物を持ち寄ってフリーマーケットで、という何ともてきとうな決まり方だった気がする。
ここに来る途中の廊下の散乱した光景からも分かるように、ちまたで有名なこの学校の大規模な文化祭には、大多数のクラスが熱を持って打ち込む。
グリーンのクラスも例外でないはずである。

「グリーンのクラスは何やるの?」
「ん?うちは屋台だよ。タコ焼き屋やるからさ、よかったらレッドも来いよ」
「グリーンがおごってくれるなら行く」
「おま…」

まぁ、そう言っても今日弁当もらっちゃったしなぁ…とブツブツ言っているグリーンから察するに、本気でおごってくれるのかもしれない。
レッドはグリーンに分からないように小さく笑うと、冗談だよと言って自らも生姜焼きを取って口に運んだ。
我ながら良い焼き加減である。しかし少しみりんを入れすぎたかもしれない。
そんなことを考えながら屋上から見える風景を眺める。
ここから見ていればとてものどかな町。
しかし、少しのぞき込めば暗雲の立ちこめる不穏な町。

しかしあれからずっと何も起こっていなかったから、きっとまだ大丈夫なんだと勝手に思っていた。
それが明日簡単に崩れるなんて…思っていなかった。

「楽しみだね、文化祭」















***
















「バトル?」
「そう!バトルです!」「文化祭特例バトル大会!」

グリーンは後輩二人の剣幕に押されつつ首をかしげた。

文化祭当日。
中庭には色とりどりの看板を飾った屋台がずらりと並び、人が波のように押し寄せている。
タコ焼き屋の店番をしていたグリーンに詰めかけてきたのは、例のごとくヒビキとコトネだった。
両手には、綿菓子、イカ焼き、ポップコーン、フランクフルトと随分と文化祭を満喫している様子がよく分かる。
グリーンは半強制的にクラスメイトに鉄板を任せると、二人の話を聞くべく店の裏側に回った。

「で、バトルって?」
「グリーンさんやっぱり知らないんだ!」「出ないつもりだったんですね!」
「おまえらいっぺんに喋るなよ」
「今年は午後から特例でバトル大会が開催されるんですよ!」
「しかも豪華賞品付き!!」
「しかもさっきバトルフロア見た来たんですけど、すごいんですよ!改造されてて氷山とかプールとかジャングルっぽいのが出来てて!!」
「…一気に喋るな分かったから…」

二人のあまりの剣幕に、グリーンは手に持っていたタコ焼きのパックから爪楊枝で中身を取り出すと、それを二人の口に一つずつ突っ込んだ。

「「あひゃーーー!!!!」」
「あ、熱いから気をつけてな」

遅すぎる注意事項に、二人は顔を真っ赤にして唯一空いている足でグリーンの足をガンガン踏んだ。

「いてぇ!いてぇって!!で!!俺にそのバトルに出ろと!?」
「そうです!今度こそ勝ちます!勝負です!」
「ただ今回タッグバトルっていう条件があって、私とヒビキくんでタッグ組むんでグリーンさんも誰か探しておいてください!」

それでは!と言って二人は脱兎のごとく人混みに消えていった。
ついでにグリーンが手に持っていたタコ焼きが見事に消えていた。

「なんなんだいったい…」
「タッグバトル?面白そうだね」
「あぁ、やったことねぇけど…って、うお!?」

いつの間にかレッドが隣に立っていた。
相変わらずぼんやりとした雰囲気なのだが、文化祭というテンションの高い空間にいるせいか、その表情はいつもより心なしか生き生きとしているように見える。
どうやら本当にタコ焼きを買いに…あるいはもらいに来たらしい。

「グリーン出るの?」

ことりと首をかしげて見てくるレッドに、グリーンは気まずそうにボリボリと頭をかいた。

「ん…いや、どうしようかな…さっきも言ったけどタッグバトルなんてやったことねぇし…豪華賞品って言ってもどうせたいしたものじゃなさそうだし…」
「誰かが優勝賞品は購買の一万円相当の金券だって言ってた」
「よし、出るかレッド」
「は?」

いきなり両手をガシッと掴まれ、レッドは目をぱちくりさせた。
出る?何に?…バトルに…?

「いや、僕は…その……あんまり目立ちたくない…」
「前回散々定期バトル荒らしておいて?」
「う…」

それはそうなのだが、前回は学校内という閉鎖的な空間でのバトルであったのに対し、今回は外部の人も見ることが可能な、オープンな試合となるのだ。
人目を気にするレッドにとってはあまり好条件とは言えない。

「それに僕、購買なんて使わないし…金券もらっても使い道ないから…」
「その時は俺が現金で買い取ってやる」
「で、でも…」
「あー!もう!俺がおまえとやりてーの!それじゃ駄目なのか?」
「…っ!」

どうしてこの男はそういうことをさらっと言えるのだろう。
レッドはグリーンの熱い視線から逃げるように目をそらせた。

"僕だってやりたい…バトル、したい…"

『バトル』という言葉だけでこんなにも身体が芯から熱くなる。
止められない、止めたくないこの情動はきっと自分の数少ないアイデンティティを構成する大事な一部なのだ。
あの場所に立ちたい。
あの緊張感を味わいたい。
体中の血が沸き立つような熱いバトルがしたい。

「…よし、決まりな」
「え…」

グリーンはレッドの手を引くと中庭の出口へと歩き出した。
レッドは半分引きずられるようにしてグリーンに続く。
もしかしなくてもエントリーをしに行くのだろう。

「待ってよ!僕まだ良いって言ってない…!」
「やりたいって顔に書いてある。レッドだってばれたくないならまた変装でもなんでもすればいいだろ?」

結局いつだってこうやって流されてしまうのだ。
レッドは口を横に引き結ぶとグリーンの手を振り解いて横に並んだ。

「僕の足引っ張らないでよ」
「そうこなくっちゃ」

ニヤリと笑ったグリーンを軽く睨み付ける。
ただ、心の中にはバトルが出来るという高揚感が確かにあった。

しかし、このとき流されてしまったのが大きな間違いだったのである。
バトルに出ることがこの先どんな最悪な事態につながっていくかなんて、このときのレッドには想像できるはずもなかった。











同時刻、黒塗りの高級車が学校の校門の前に止まった。

「到着致しました」

後ろの席から出てきたのは、車と同じ黒いスーツを見にまとった中年の男性だった。
短く切られた黒い髪とその鋭い眼光が、常人とは違うオーラを醸し出している。
そんな文化祭など甚だ場違いに感じられる男性が、可愛らしく飾り付けられた校門のアーチをくぐった。

「あぁ、実に楽しみだ。レッド…おまえに会えるかもしれないなんてな…」











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