「痛くなかった…」
レッドは呆然としながらベッドから身体を起こした。
いや、現在進行形で腰は痛いのだが、いつものあの身体をナイフで貫かれるような強烈な痛みはなかった。
"こんなの初めて…"
混乱する頭でとりあえず隣ですやすや眠るグリーンを見、そして自分の身体を見る。
やはり女。
昨日までと何も変わらない。
レッドはグリーンの頬をするりと撫でると、その端正な寝顔をジッと眺めた。
先程の雄々しい姿など見る影もない、可愛いと言ってもよいような安らかな寝顔。
結局流されてやってしまったが、案外嫌ではなかった自分に驚いている。
同じ男とは寝ないと決めて、それをずっと貫いてきたのに…
複雑な思いのままベッドから降りると、シャワーを浴びようと風呂場へと向かい…その途中でボールに入れたままのピカチュウを思い出し、更にキッチンが危険な状態にあることを察知したレッドは慌てて火がついたままのガスコンロに走った。
そんな深夜2:30。
5
「グリーン、起きて…」
心地よい浅い眠りの中、これまた心地よく響く険のない声。
同時にゆらゆらと身体が揺らされる感覚。
声の主は何処だろう。
夢と現の区別のつかないまま、手を伸ばして手に触れたそれをグイと引く。
…捕まえた。
「ちょ!?」
慌てたような声と同時に身体の上に覆い被さってくる何か。
それがとても暖かいことが分かると、躊躇無く抱きしめた。
ふにふにと柔らかくて、とてもいい匂いがする。
何というか、すごく抱き心地が良い。
そしてそれは、
「っ、いい加減にしろ!!」
「グフッ!」
夢心地のグリーンに見事な肘鉄を喰らわせてきた。
「…ごめんね起こして」
「…ぇ」
攻撃を喰らった腹の痛みのおかげで、グリーンの意識は大分はっきりしてきた。
涙で滲む視界のまま首を巡らせれば、たった今強烈な一撃を喰らわせた張本人が目に入る。
あぁ、さっき抱き寄せた柔らかくていい匂いのする正体は彼女だったのかと一人納得し、次に何気なく目をやった先にあった枕元の時計の指す時刻に、グリーンは文字通り固まった。
二つの黒い針が示す時刻は3時過ぎ。
「まっ!?」
まさかの昼の3時!?と慌てて窓の外を見るが、外は真っ暗。
そこでやっと深夜の3時だということが認識できて、グリーンは「はぁ…」と安堵の息を吐いた。
「えっと…何でこんな時間に…」
「シャワー浴びてきなよ」
グリーンの言葉を遮って、目の前の彼女がタオルをグリーンに押しつける。
そのままズルズルと押されていったグリーンは、自分が脱ぎ捨てた服と共に風呂場に押し込まれた。
"早く帰れってことか…?"
若干落ち込みながら浴室に入れば、まだ中が温かいことに気づく。
どうやら彼女もシャワーを浴びたばかりらしい。
そういえばあれは風呂上がりの女の子の匂いだったと、先ほど近くにいた彼女を思い返しながらシャワーのノズルを捻る。
頭からお湯を浴びながらグリーンが考えるのは、つい3時間程前のことである。
彼女との二回目。
あの店の女性たちが言っていた、辻褄の合わない話の真偽を確かめたいという気持ちも確かにあったが…
"はぁ~…何がっついてんだよ、俺…"
本当は無理に押し倒すつもりなどなかった。
しかし彼女を前にしたら理性とかそんなものは簡単に吹っ飛んで、気が付いたら彼女を掻き抱いていた。
優しくしてあげられる理性さえも残っていなかった。
"おいおい、これ俺あのおっさんと何も変わんねぇんじゃ…"
今更ながら後悔の念に襲われて、グリーンはそのまま頭を抱えてしゃがみ込んだ。
上から降ってくる温かいだけのシャワーは、煩悩も雑念も流してくれそうにない。
「あー…風呂サンキュー」
風呂から出て気まずいままにキッチンに入れば、そこにいた彼女がパッと振り返った。
先ほどの黒Tシャツ+ジーンズスタイルにエプロンがかけられている。
なんだろう、可愛さの欠片もないシンプルなエプロンなのだが、…こう、くるものがある。
思わずガン見してしまったグリーンだが、見られている当人はさほど気にする素振りも見せず、小首を傾げて鍋とフライパンがかかったガスコンロを指差した。
「もしよかったら、ご飯食べてく?」
「食べる」
即答だった。
よく考えてみれば、昨日の夜は何も食べてない。
まぁ、別のものは食べたが。
いやいやいや…何考えてんだ俺。
少し頭を冷やせ。顔に出すな。怪しまれるぞ。
「どうぞ」
そして煩悩に一人悩むグリーンの前に出されたのは、湯気の立つかき揚げうどん。
思っていたよりも凝ったものが出てきてグリーンは目を丸くした。
ふやけないうちにと、いただきますと手を合わせてから早速かき揚げを一口かじってみる。
衣のサクッとした食感の次に中の柔らかい野菜から甘みがにじみ出てきて思わずうまい、と言葉が零れ落ちていた。
「…ありがとう」
同じくかき揚げをかじった状態の彼女が少し目を細めてはにかむ。
それを直視してしまったグリーンは一気に顔に熱が集まるのを感じた。
しかし、こんな顔も出来るのだと感激するのと同時に、他の人もこの顔を見ているのかもしれないと思うと胸に何か苦いものが広がってきて、グリーンは思わず向かいに座る彼女の真っ白な頬に手を伸ばしていた。
いきなり頬に触れられた彼女は、かき揚げをかじりながらきょとんとしてグリーンを見てくる。
「なぁ、いつもこんなことしてんの?これからも、誰とでもやんのか?」
「………」
目の前の深紅の目が僅かに細められて思わずギクリとなる。
彼女の些細な言動にどうしてこんなにビクビクしなければならないのだろう。
グリーンが見つめる先で、かき揚げが口から離れ、先程さんざん口付けたせいで少しだけ腫れぼったい唇が僅かに開く。
否定して欲しい。自分が初めてだと、言って欲しい。
そんなグリーンの内面を知ってか知らずか、向かいの彼女はほとんど表情を変えずに、頬に添えられているグリーンの手に自分の手をそっと重ねた。
「グリーンに会えたから…もう他の人とはしなくてもいい」
「は?」
至極真面目な顔で言われたその言葉は、答えになっているようで答えになっていない。
しかしグリーンへの殺し文句としての効果は抜群だったようで、グリーンは真っ赤な顔で「は、へ、は?」などと変な声を上げながら口をパクパクさせていた。
「おじゃましました…」
「気をつけてね」
パタン。
そしてグリーンはいつの間にか部屋から出てドアの前に立っていた。
あの後どうやってうどんを食べきったか覚えていないが、とりあえず残さなかったことだけはうっすら記憶にある。
正直うどんの味はさっぱり覚えてない。
未だに放心状態のグリーンはふらふらとした足取りのままアパートの階段を降りた。
いつの間にか雨は止んでいて空には星すら見える。
東の空はもううっすらと夜の色が薄らいでいた。
せっかく目的の彼女に会えたのに、レッドのこともピカチュウのことも聞くのを忘れていたとグリーンが気づくのはまだ先。
帰宅して自宅の敷居を跨ぐ時である。
「セーフ…あぶな…」
レッドはグリーンを家から追い出すと、ずるずるとその場にしゃがみ込んだ。
じわじわと身体の芯が熱くなってくる。
少しふらつく足取りでリビングに置いてある大きめのソファーへと倒れ込めば、ピカチュウがトテトテと寄ってきて心配そうに見上げてきた。
その頭をよしよしと撫でてやれば、小さくチャァと鳴き声を上げて手に頬ずりしてくる。
レッドはふわりと笑うと、ピカチュウから手を離してソファーの上で器用に丸まった。
だんだんと強くなる身体の違和感。
歯を食いしばってそれに耐えながら、レッドはきつく目を閉じた。
***
「ごめん、レッドいる?」
4限後の昼食時、グリーンは再び2年6組教室に来ていた。
ダメもとで来たのだが、今度はグリーンの予想に反してクラスの住人からは来ているとの返答が来た。
「マジで!?どこにいるか分かる?」
「ん~…お昼は行方不明だからなぁ…レッドくん…」
もし教室にいたらお昼誘っちゃうよとその女子は笑って続けたが、その言葉を聞かずにまたグリーンは教室を飛び出していた。
食堂、校庭、裏庭、芝生、とにかく昼食スポットを駆けずり回ったグリーンだが、レッドはなかなか見つからない。
半分諦めかけていたところ、一カ所だけ確認してないことに気づいた。
数ヶ月前に、危険だということで学校側から立ち入り禁止令が出た屋上。
「マジでいた…」
風が強く吹く荒廃したそこは、昼食を食べるにはあまりにも不向きである。
しかし、その屋上の、更にその上の吸水タンクの上に、あぐらをかいて座るレッドの姿があった。
レッドは一人でもそもそと弁当を食べていたが、同じく吸水タンクによじ登ってきたグリーンが声をかけると、相変わらずの乏しい表情でそちらを振り返った。
「立ち入り禁止だよ。悪いんだ~」
「…おまえが言うのか」
グリーンは持ってきていたパンの袋を破ってレッドの隣に座った。
勿論レッドに会ったときの口実のために持ってきたパンである。
休み時間はもう10分を切っていたが、レッドはのんびりと弁当をつついている。
ちらりと弁当をのぞき見れば、色鮮やかなおかずが詰められている。
人参とアスパラの肉巻き、ミートボール、だし巻き卵、可愛く花柄に切られた人参やミニトマト。
正直に言おう。
超絶美味そうである。
半分ほどしか残っていないが、弁当箱を開けた瞬間はさぞ壮観だったであろうことがありありと想像できる。
思わず感嘆の息を漏らしたグリーンに、レッドはグリーンが欲しがっていると思ったのか、食べる?と弁当箱を差し出してきた。
欲しい、凄く欲しい。
しかし、箸がない。
答えられず黙ったままのグリーンに、レッドは「あぁ、箸か」と思い出したように呟くと、自らの箸でミートボールを摘んでグリーンの前に差し出した。
「はい」
「へ?」
所謂あーんの姿勢に、グリーンは文字通り固まった。
何故に男とこんなことを?
しかしこちらを伺い見てくるその深紅の目に魅せられて、断る気など毛頭起きない。
むしろ昨晩の彼女と重なって余計に心臓が早鐘を打つ。
しかしそんなことは知る由もないレッドである。
なかなか食べてくれないグリーンにしびれを切らしたのか、少し眉根を寄せるとグリーンの口にそれを無理矢理押し込んだ。
「むぐぅっ!」
「…もしかしていらなかった?」
「いや、超美味い、サンキュー」
つっこんでから不安になったのかレッドが控えめに尋ねるが、もごもご口を動かしながら答えるグリーンは非常に幸せそうである。
「母親が作ってくれてんのか?」
「ううん、自分で…」
「マジで!?すげぇじゃん!」
目をキラキラさせてレッドを見つめるグリーンは明らかに来た目的を忘れそうになっている。
ちなみにこの弁当こそがクラスの女子がレッドと弁当を食べたい一因となっている幻の品なのだが、グリーンはそれがそんな貴重なものだとはつゆ知らず、ありがたみの欠片もなく飲み込んでしまった。
「別に…あるもの使ってるだけだし…」
例によって冷蔵庫にパンパンに詰まった貢ぎ物をなんとかしなければならない故の手段である。
一人暮らしだから出来合いの物を買って食べればいいと考えていたレッドだったが、どんどん増えていく食材を捨てることもできずに、結局料理することに精を出し、今となっては主婦顔負けの料理の腕前になってしまっていた。
しかしそんなことをグリーンに話す必要もない。
レッドはパンをかじりながら尚弁当をのぞき込んでくるグリーンをちらりと見ると、些か低めの声を紡いだ。
「で、僕に何か用?」
「あっ」
本当に目的を忘れていたらしく、間抜けな声を上げたグリーンは口の中のパンを飲み込むと改めてレッドの方に向き直った。
琥珀色の目が、対照的な緋色の目を気まずそうに見つめる。
「あの…この前さ、定期バトルの日、俺おまえの話全然聞かずに突き放しちゃって…それでその後探したんだけど見つからなくて…ずっと気にかかってて……あの時は言えなかったけど、俺、やっぱりおまえの力になってもいいかなって思ったっていうか…」
どこまでも歯切れの悪い言葉にレッドは僅かに、本当に僅かに表情を緩めると、静かに立ち上がった。
いつの間にか弁当は食べ終わり、その箱は手持ちの弁当ケースにしまわれている。
「ありがとう…グリーンは優しいね」
「え…」
「でも、やっぱり大丈夫だから、気にしないで」
そう言って踵を返したレッドは、文字通りグリーンの目の前から消えた。
ちなみに先程も述べたようにここは吸水タンクの上である。
「は!?」
グリーンは慌てて吸水タンクの上から下を見た。
真下のドアからちょうどレッドが屋上を後にしようとしている姿が見える。
慌てて自分も続こうとして…踏みとどまった。
ここから飛び降りるとか、怖くて無理だ。
「おいレッド!」
叫べばレッドが不思議そうな顔でこちらを見る。
「おまえ、『紅』って名前の子知ってる!?親戚とかだったりしねぇ!?」
レッドは一瞬何か考えるように口を閉じたが、すぐにいつもの平坦な調子で、さあね、と答えて今度こそドアから出て行ってしまった。
「いつもここで一人で飯食ってんの!?」
付け足したそれには答えは帰ってこなかったが、グリーンは明日もここに来ればレッドに会えるような気がした。
風がバタバタと服と髪を上へと巻き上げていく。
この場所からは運動場はもちろん、その向こうに広がる町やその先の山まで見渡すことが出来る。
この強風と荒廃した光景はいただけないが、この景色を見ながら昼食というのも意外と悪くないのかもしれない。
ぼんやりとそんなことを考えていたグリーンだったが、いつもよりも大きめの予鈴の音が耳に入ってきて慌てて梯子に足をかけた。
早く戻らないと授業に遅刻である。
「グリーン…馬鹿な奴」
レッドは足早に屋上から教室への帰路を辿りながら呟いた。
その白い頬には僅かに朱がさしている。
女の自分に夢中になって、しかも男の自分のことまで気にかけてくれるなんて…
"どんだけお人好しだよ"
本当はグリーンに謝りたいのは自分の方だった。
いきなりあんなことを言われて引かない人の方がおかしい。
だから、次に学校で会ったらちゃんと言おう思っていたのに。
『変なこと言ってごめん』と、一言謝ろうと思っていたのに。
よく考えれば、グリーンに助けを求めるということはグリーンまで危険な目に遭わせるということである。
あんな優しい人を巻き込んではいけない。
あの人が現状を打開する運命の人だったということだけで十分じゃないか。
これ以上自分も相手もお互いに深入りしてはいけない、そう思っているのに、今日会えて嬉しかっただなんて…
明日も会いに来てくれるかもしれないなどと期待してしまっているだなんて…
「本当に、どうしようもない馬鹿…」
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