あなたのことが、好きです。

だから、あなたのことを考えると苦しくなる。

でも、その苦しいって気持ちは大好きな気持ちの塊だから…

だからいつも大事にしたいと思う。

例えあなたから見た僕が違っていても、

僕が見ているあなたはいつも同じだから…














         13




「……なんか、ごめん」

ひとしきり泣いた後、レッドは気まずそうに顔を伏せていた。
その前でグリーンが優しくレッドの頭を撫でる。

「謝んなよ。むしろ謝るのは俺のほうっていうか…」
「そうですね。ヒントがあったにも関わらず、レッドさんがここまで追い詰められるまで気づけなかったグリーンさんはとりあえず土下座して謝ったほうがいいと思います」
「………」

辛辣な言葉を放ってくる後輩を軽く睨んで、グリーンはレッドの頭から手を離した。
確かにコトネの言うことは間違っていないが、そこまで言われるとさすがにきつい。
そのぶん今から挽回すりゃあいいんだろ、と言えば、コトネは当然ですと軽く睨み返してきた。
まったく、グリーンからしてみればどこまでも可愛くない後輩である。
ヒビキはと言えば、先ほどからコトネとグリーンを交互に見て顔を青くしている。
こちらは先輩の様子を窺っている点では多少は可愛いげがあるのかもしれない。

「…それより、コトネはその情報、どこで仕入れてきたの?」

やっと視線を上げたレッドがコトネに向かって問う。
その目は散々泣いたせいで痛ましいほどに赤いが、相変わらずその眼光は鈍ることがない。
むしろ水の膜が張られたせいか、余計に鮮やかに映った。

「誰かに聞くか、何か盗み見しない限り、僕に関するそんなこと知れるわけがない」
「…後者ですね」

ちらりとヒビキを見てから、コトネはレッドのほうへ向き直った。

レッドさんを探しに行ったあの研究所で資料をちらっと盗み見しました。レッドさんがそんな身体になった経緯とか、例のポケモンに関することとかいろいろ書いてあったもので…」
「…嘘でしょ」
「………どうしてそう思うんです?」
「チラ見したにしては詳しすぎる。あんな敵だらけの緊迫した状況で、しかも時間なんてろくになかったはず。…持ち帰ったんじゃないの?その資料」
「…!」

斜め後ろにいたヒビキがビクリと震えたのを目の端に捕らえて、コトネは小さくため息をついた。
この人に隠し事など出来ないのだろう。

「…ご名答です」
「っておい!まじかよ…!」

グリーンが身を乗り出してきたのをコトネは軽く手で制する。

「残念ですが、グリーンさんに見せることは出来ません。グリーンさんが発狂しそうなことまでいろいろ書いてありましたし
「そんなん関係ねぇ!見せ…」
「それにもう燃やしちゃいました」
「はっ…?」

今頃焼却炉の中で炭になってます、と、身を乗り出した姿勢で固まったグリーンをそのまま押し返して、コトネは邪気の無い笑みで言い放った。
あ、これは嘘じゃないですよ?と何か言いたそうなレッドにも釘を刺す。

あんな危険資料いつまでも持ってるほど命知らずじゃないですから
「…の割にけっこう命知らずな行動取ってる気がするけどね」
「…とまぁ、レッドさんに関することはご本人が一番知ってるってことで割愛しますよ」

ニコリと笑ってレッドの言葉を流したコトネに、流されたレッドは小さくため息をつくに留めて文句は飲み込む。
コトネが自分も知らない情報を持っていることは確かのようだ。
とりあえず、今はそれが聞きたい。

「それじゃ、大事なところだけ掻い摘んで話しますよ。とりあえず、ジラーチについて…」
「ジラーチって、あの伝説のポケモンのジラーチか?」

やっと我に返ったグリーンが小さく首を傾げる。

「あのジラーチです。さすがグリーンさん。ポケモンに関しては詳しいですね」
「…その言い方むかつくぞ…。っていうか、俺も見たことねぇんだけどジラーチとか。1000年のうち7日間しか目を覚まさないんだろ…?」
「その7日間が最近だったみたいですよ。現に、レッドさんはジラーチの願い事でこのような身体になったみたいですし」
「…まじかよ」
「まじだよ。でもあの時願い事は3つ使い切ったはず。それにもうジラーチは眠りについてるでしょ。いったいそのジラーチがどう…」
「強制的に眠りから覚まさせる研究をしてるみたいです」

コトネの言葉に、レッドが一瞬目を見開いた。
手のひらにじわりと滲んだ汗が気持ち悪い。
ギュッとその手を握り、続きを促す。

「それで…?」
「結果から言うと、まだ成功していないみたいです。でもこの研究、ものすごい規模で行われてるみたいなので、楽観視はしないほうがいいですね」
「ジラーチ…」

レッドの中で、あの日の記憶は恐ろしいほど鮮明に残っている。
あの時、サカキがジラーチの持ち主のようだった。
どのような境遇で手に入れたにしろ、主はサカキだったはず。
それなのに、ジラーチはレッドの願いまで叶えてくれた。
そのジラーチが研究対象として苦しんでいるかもしれないと思うと、…どうにかして助けてあげたいと、そう思ってしまう。

「そうなると、まずポケモンを取り戻すことが優先ですよね。グリーンさんが強くなるためにも、まず手持ちは必要でしょう?あまり時間的にも余裕がないと考えた方がいいですし」

私も自分の手持ちを返してもらわなきゃですし、と続けたコトネに、レッドは思わずコトネの手を握っていた。

「ちょっと待って、これ以上関わるのはもう止めた方がいい。今まではなんとかなってたけど、向こうもポケモンが盗まれたとなったらもう容赦しない。君たちがそこまでする必要なんか、ない。条例は僕が何とかするから…!」
「ご心配ありがとうございます。でも、もう引き返す気はさらさらありません。ここまで来たら最後まで付き合わせてください」
「な、なんで…」
「レッドさんが大好きだからですよ?そこのグリーンさんだけじゃないです、あなたのことを好きなのは」
「…っ」
「一人で抱え込まないでください、レッドさん。もっと私たちを頼ってください。頼ることを躊躇わないでください。頼られないことのほうが悲しいこともあるって、知ってください。…ね?」

レッドが握ったままの手の上に、握られていないほうの手を優しくかぶせてコトネが微笑む。

「そうですよ、レッドさん。みんなついてます。グリーンさんだけじゃ頼りないですしね」

ヒビキもにっこり笑って、コトネの手の上から自らの手を重ねる。

「おまえは何でもため込みすぎだ。頼むから、もっと俺にも一緒に背負わせてくれよ」

グリーンがレッドの背後から、レッドの身体ごと包み込むように腕を伸ばす。
そして重ねられた手の上に、勢いよく自らの手のひらを振り下ろした。
バチンッという威勢の良い音とともにグリーンがニヤリと笑みを浮かべる。

「っしゃあ!そんじゃ、いっちょやりますか!!」










「ということで、今夜乗り込みましょう」
「まじで…?」
「まじです」

確かに先ほど意気込んだ。
「いっちょやりますか!!」とか叫んで意気込んだが…
昨日の今日でまた潜入…
実は昨晩頑張りすぎたせいで寝不足…とは死んでも言えず、グリーンは半分呆然としながらこちらを見て勝ち気に微笑むコトネを見た。

まだ昼の明るさを保っているものの、日は西へと順調に傾いていた。
時計の針は4時を回っている。
昼休みから1時間授業をサボり、そしてもう1時間は教室に戻った一行は、放課後再び屋上へと集まっていた。

「ちなみに、乗り込むって…場所のアテがあるのか…?」
「あれ?もしかしてグリーンさんまだコトネちゃんの情報網を甘く見てます?」

ふふんと目を細めたコトネに苦笑すると、隣でヒビキが代わりに頷いた。

「街で回収されたポケモンは一カ所に集められて管理されてます。ポケセンでは到底面倒見きれませんからね」
昔ヒビキ君と回収した人たちをそこまで尾行したから間違いないです」
「…おまえら」

頼もしい。頼もしすぎるが、少々どころではなくやっていることが危ない。

「ただ、僕たちも完全に入り口止まりでした。さすがに警備がしっかりしてますからね…」
「今回は自分たちのポケモンを見つけなきゃいけないので、昨晩みたいに途中で見つかるのはまずいです。入り口でばれるなんて論外。最後までばれないように行動しないと…」

そう、手持ちのポケモンは、自分にしか分からない。
ヒビキがグリーンのポケモンを見つけたところで、ヒビキにそれがグリーンのポケモンだと知る術はないのだから。

「ということで、今回は二手に分かれましょう。私はヒビキ君のポケモンは分かるし、逆もまた然りなので、私たちはバラバラになります。あとはどっちがどっちにつくかですけど…」
「じゃあ僕はヒビキとがいいかな。夜は女になっちゃうし、どっちかに男がついてたほうがいいよね」

レッドが少し考える素振りを見せて呟く。
もし何かがあったときに、女でだけでは心許ないということがあるかもしれない。
まぁ、何も無いに越したことは無いのだが。

「…じゃあ私はグリーンさんとですか」

コトネがあからさまに面白くないという顔をしてグリーンを一瞥する。
グリーンもそれに負けじとコトネにガンを飛ばす。

「俺の足引っ張るんじゃねぇぞ」
「それはこっちの台詞ですけど?」

火花が飛び散りそうなその剣幕にヒビキがひっそりとため息をこぼす。
何だかんだでこの二人は啀み合いながらもお互いを認めている。
喧嘩をして足を引っ張り合うなんてことはないだろう。

「ってことで、よろしくね、ヒビキ」
「えっ!?あ、はい…!」

いきなり顔を覗き込まれたヒビキは驚いて肩を跳ねさせた。
いつの間にこんなそばまで来ていたのか。
盛大に驚いてしまったことが恥ずかしくて、ヒビキは肩を竦めた。
レッドはそんなヒビキに僅かに微笑む。
それに驚いて、ヒビキはまた小さく震えてしまった。
どうしても昨晩の女の姿と被ってしまって、どぎまぎしてしまうのを抑えられない。
至近距離で見ると、綺麗な顔をしているなとか、睫毛長いな、とか余計に意識してしまって……
男の時でも、十分綺麗だ。
顔が赤くなりそうなのを誤魔化すように、ヒビキは大きく首を縦に振った。

「絶対、取り返しましょうね」
「…うん」

レッドも頷いて、小さくはにかむ。
それにヒビキも笑い返して、絶対にこの人を助けてあげたいと、そう心から思った。












潜入開始は、職員が帰って建物内が非常灯だけになる午後10時。
その時間帯なら、もし足音を立ててしまっても誰か忘れ物を取りに来たのだろうとさして気に留められないだろう。
問題は巡回する警備員たちである。
ポケモンを収容する重要施設ならば、その警備体制も生半可なものではないだろう。
実際、ポケモンを取り返そうと乗り込んで取り押さえられたという話をニュースでもちらほら聞く。
未だに無事にポケモンを取り戻せた人はいない、ということだろう。
こっそりと盗み出すためにも、警備員に見つかるわけにはいかない。
無事に逃げ出してもその後に逮捕、では意味がないのだ。

「ってことで、今回は100%気づかれずに、且つ堂々と進入しちゃおう☆大作戦、です」
「なんだそりゃ…」

そして夜10時少し前。
グリーンたちは街の中心部から少しずれた所にひっそりと立つ、役所の前に立っていた。
昨晩とは違い、木々に囲まれているわけでもないし、街灯も普通にある。
歩いていても誰も気にも留めないであろう、どこにでもあるような普通の建物だ。
こんな場所で保管されていたなどと知らなかったグリーンは、ただただ驚愕するばかりである。
そんなグリーンに、コトネは一着の服を突きつけた。

「そこでこれです、グリーンさん。これ着てください」
「これは…?」
「警備員の服です!昔奴らと一悶着あった時に、一着だけ剥ぎ取りました!」
「…いったい何をやってるんだおまえらは」

心底呆れてニコニコと笑う後輩二人組を見る。
一悶着とは何だろうか。
しかも剥ぎ取ったとは…?
いったいどんな状況で剥ぎ取るなどという行動が起きたのかまったく想像がつかない。

「まぁ、いろいろあったんですよ。家まで来た奴らを追って路地裏に引き込んでバリッと。子供に服剥がれたなんて、恥ずかしくて報告も出来なかったと思いますけどねー」
「…で、俺にこれを着て潜入しろ、と」
「はい。サイズ的にグリーンさんしか無理です。ヒビキ君でもぶかぶかだったし」

若干恨めしそうな目でこちらを見ているヒビキには気づかないふりをして、グリーンはシャツの上から警備服に腕を通した。
なるほど、確かにぴったりである。
ちなみに今回の作戦では、眠り粉などのようなポケモンの技は極力使わない方向でいく、ということになっている。
粉が残っていれば、それを調べられてポケモンを特定されるかもしれない。
また粉に限らず、ポケモンを使えば何かしらの痕跡が残る可能性が高い。
痕跡が残らなくても、ポケモンが監視カメラの映像に映っていたらそれだけでアウトである。
今回は公の建物である以上、その映像が証拠品として警察に回されるということも十分考えられるのだ。
ということで、コトネも長い髪を黒い帽子に全て突っ込んで、男装という形を取っている。
ヒビキに至っては、いつものセットされた前髪が見る影も無く、帽子に入れ込んであった前髪まで出しているため誰だよこいつ状態である。
ちなみにレッドはセミロングのただの可愛い女の子である。
いや、ただではない。究極に可愛い女の子である。異論は認めない。

「…で、俺だけ着てどうすんだよ」
「グリーンさんには、先に入ってちょっとやってもらいたいことがあるんですよ」

悶々と考え事をしながら着終わったグリーンに、コトネは一本の500mlペットボトルを取り出して悪い笑みを浮かべた。

「ばっちり頼みますよ~」












「お疲れ様でーす」
「…おう、お疲れ。…ん、どこ行ってたんだ、おまえ」
「ちょっと外の空気吸いに。ついでに飲み物買ってきたんで、良かったらどーぞ」

行きは裏口から出たんすよ-、と軽く言った男は、入り口のすぐそばにあるモニター室の中の警備員に蓋をゆるめたペットボトルを差し出す。

「おまえなぁ…今日は向こうの研究所の後片付けとかに駆り出されて、ただでさえ警備は二人しかいないんだ。あんまり勝手に出歩くな。何かあったら大目玉だぞ…」
「ははっ、すみません、今からちゃんと仕事しますよ」

悪びれずに言った男は、それじゃ、と言って建物内へと踵を返す。
そして次の角で曲がると足早に物陰に隠れて携帯を取り出す。

「…おい、ちゃんとやったぞ」
『ばれませんでしたかー?』
「おまえ…まさかばれるの前提で俺を行かせたのか…?」
『まさかー。もし失敗したら全力疾走で逃げる予定だっただけですよ』
「………」

確かに警備員がお互いの顔を把握していたらその場でアウトな作戦だ。
成功する確率は五分五分といったところだっただろう。
警備員の帽子を深く被り直したグリーンは大きなため息をついた。
何にせよ、運が良かったというところだろうか。

『ちょっと様子見てきてください。多分飲んでくれたと思いますけど…』
「あぁ、蓋開けて渡したからな……っていうか、何か混ざってるのか、アレ…」
『何を今更。超即効性下剤入りですよ?予定では今頃トイレ直行で1~2時間は嘔吐と下痢で出てこれません』
「どんな薬だよ…」

想像して思わず顔をしかめたグリーンだが、彼には心中で手を合わせることにして、再び入り口付近へと足を運ぶ。
案の定、先ほどまでモニタールームにいた彼は姿を消していた。
監視カメラの映像はここで一括して管理しているようだから、彼がいなければとりあえずは好きに動き回って大丈夫だろう。
グリーンはとりあえずルーム内に見あたる主電源らしきものを落とした。
ブツンという音ともにモニターが真っ暗になる。
これで監視カメラ自体の録画も止まってくれると嬉しいのだが、そこまではさすがにグリーンでは分からない。

「大丈夫みたいだ。もういねぇ…」
『了解です!』

程なくして、残りの3人が堂々と正面玄関から入ってきた。
小走りで駆けてきた彼らと合流し、とりあえず薄暗い廊下まで進む。

「おいおい、警備員以外にも人がいるかもしんねーんだ。もうちょっと慎重に入れよ…」
「ていうか、10時過ぎても鍵がかからないことに驚きですけどね」
「なんか昨日の研究所の方に人員回されてるみたいだな…今日行動起こして良かったのかも…」
「当たり前です!向こうが体勢立て直す前に行動しなきゃ、この先勝ち目なんてありませんよ」

ただでさえ目付けられちゃったんですからね、と大して重大でなさそうにコトネが呟く。
しかしこれはまたとないチャンスというやつだ。
逆に言えば、この機会を逃したら次はないかもしれない。

「警備員はさっきの奴の話だと、今日は二人だけらしい。少なくとも、本当の警備員がもう一人中にいるってことだからな。気ぃ抜くんじゃねぇぞ」
「それじゃ、こっからは二手ですね。ヒビキ君、レッドさんのこと頼むね」
「レッドに何かあったら許さねーからな…」
「は…はい…」

早くも真っ青なヒビキに、レッドがグリーンを窘めるように軽く睨む。
しかし、ポケモンがどのように保管されているのか、というのか何カ所かに分けて保管されているのかさえ分からない以上、1分たりとも無駄には出来ない。
見つけたらすぐに連絡を取り合うということだけ決め、一行は二手に分かれて捜索を開始した。



「ヒビキの奴、大丈夫かよ…」
「グリーンさんだってヒビキ君の強さ知ってるでしょう?きっと大丈夫です」
「いや、レッドと二人きりとか…ヒビキが変なこと考えねーか心配だ…」
「…グリーンさんと一緒にしないでください」

侮蔑を含んだ目で見るが、グリーンはそれすらも気に留めないほど真剣な顔で横を歩いている
本当に、レッドのことになると怖いくらいに一途だ。
それはきっと良いことなのだろうが、今のコトネには少々理解しがたい。
どう見てもレッドもグリーン一筋である。
万が一ヒビキの方から何かアプローチをかけたとしても、軽く交わされるのがオチだろう。
そこまで心配する意味が分からない。
きっと理屈とかではないのだろうけど…

「とりあえず恋にうつつを抜かしてヘマとかしないでくださいよ」
「俺がいつヘマしたんだよ…」

恋はしつつもヘマはしないと真面目な顔でぬかすグリーンに、コトネは盛大にため息をついた。
そしてこの人は放っておこうと、そう心に決めた。








「く、暗いですね…」
「そうだね」
「グリーンさんたちと僕たち、どっちが先にたどり着きますかね…
「さぁ…」
「ここまで静かだとちょっと怖いですね…」
「そうだね」
「………」
「………」

ヒビキは今、人生における(気持ちの面で)最大の危機に直面していた。
何せ、コトネ以外の女子と二人きりになったことなどほとんど無い彼である。
別の意味で緊張でガチガチだった。
必死で喋るものの、レッド自身が相づち程度しか言葉を発してくれないのでヒビキの心のHPは今にもつきそうである。
しかしレッドは足を止める素振りも見せず、淡々と先々の部屋をチェックしていく。

「なかなか見つかりませんね…」
「そうだね」

時折ぼそぼそと小声で話す二人を照らすのは、足下に点々とある非常灯だけだった。
お互いの顔もろくに見えないほどの暗がりな上にレッドは黒い服を着ているため、ふと目を離したら闇に溶けて消えてしまうのではないかとそんなことを考えてしまって、ヒビキはレッドから目を離せずにいた。
そのくせ、時折振り返ってくる顔は闇色の髪と正反対に白くて、そこに存在を主張するかのように在る紅蓮の目に、目が合う度にドキリとしてしまう。
本当に魅惑的というか、多くの人が惹きつけられる理由がよく分かる。
コトネまでメロメロになっているのは少々納得がいかないが。
そんなことを考えながら部屋を捜索していたヒビキだったが、廊下を曲がった先でレッドが急に立ち止まったのを見て、少し早足でレッドの後ろへと並んだ。

「どうかしたんですか?」
「…あの部屋、誰かいる。警備員かな…?」

確かに、先のドアからは微弱だが光が漏れている上に、微かにテレビか何かの音が聞こえてくる。
何にせよ、見つかることは回避したい。
その部屋付近は後回しにしようと踵を返そうとした二人だったが、不意に真後ろからコツ、コツという靴音が聞こえてきてその場で硬直した。
先ほど自分たちが通ってきた廊下を進んでくる足音。
一人分の足音なことから、グリーンたちではないことは容易に分かる。
今現在部屋には誰もおらず、その足音の主が部屋へと帰ってきたと考えるのが妥当だろう。
トイレに行っていたのか見回りをしていたのかは知らないが、タイミングが悪すぎる。
このままここにいたら鉢合わせすることは確実である。
考える間もなく、足音はどんどん近づいてくる。
すぐそこの曲がり角から足音の主が現れるまで、もう時間が無い。
しかし廊下に隠れる場所は見当たらず、逃げるには先の曲がり角まで走るしかない。

「…ヒビキ」
「…っ」

レッドは意を決したようにヒビキを見ると、そのままヒビキの腕をとって走り出した。
いくらスニーカーといえども、この静けさの中では嫌でも音が響いてしまう。
…はずなのだが、走っているヒビキの耳に入ってくるのは、何故か自分の分の足音だけだった。

「誰だ!そこにいるのは!?」

案の定こちらの足音に気づいたらしく、あちらの足音が速くなる。
ヒビキは心臓が弾け飛ぶのでは無いかと思うくらい動揺していたが、ちらりと振り返った先に見えた脱ぎ捨てられた靴に、更に自分の鼓動が早鐘を打つのが分かった。
そう、部屋の前に放置されているのは、先ほどまで確かにレッドが履いていた靴だ。
どうして…
驚愕してレッドを見るが、レッドは脇目もふらず曲がり角まで疾走すると、休む間もなくヒビキの手に一つのボールを押しつけた。
それがピカチュウのボールだと分かったヒビキは、意味が分からずにレッドを見る。
レッドは真剣な顔でこちらを見ていた。

「僕が足止めしておくから、先に進んで。僕の手持ちたちはピカチュウが分かってるから」
「え…」

途端、ヒビキの手の中でピカチュウが入ったボールがカタカタと激しく震え始める。
ピカチュウのほうが事態を早く理解したらしい。

「ピカチュウ、いつものお仕事と同じだよ。心配しないで?君を置いていくわけじゃない。君に僕の代わりをお願いしたいんだ。…ね、君が僕の一番の相棒だから任せられるんだよ。…他のみんなを見つけてきて?」

そして、僕のところに戻ってきてね。
そう言って、レッドはヒビキの手ごと両手で包むと、その中に収まるボールに唇を押しつけた。
ニコリと微笑んで、そしてすぐにヒビキの背中を押す。

「頼んだよ、ヒビキ」


「そこにいるのか?大人しく出てこい!」

すぐ近くから声がして、二人の肩が同時に跳ねる。。
まだ躊躇するヒビキに、レッドは「早く行け」と口パクで伝えると、自ら声の主のいるほうの廊下へと歩き出した。
ヒビキは唇をかみしめると、小さく頷いてレッドとは反対側へ駆ける。
ヒビキの姿が見えなくなるのを確認して、レッドは小さく微笑んだ。

「…こんなところで何をしているんだ?」
「……ご、ごめんなさい……お父さんの忘れ物を取りに来たんだけど、暗いし、場所が分からなくなっちゃって…」

どうやら警備員で合っていたらしい。
角を曲がってレッドの前に現れたのは、先ほどのグリーンと同じ格好をした男だった。
見た目から察するに、まだ年は30前だろう。
彼はレッドが脱ぎ捨てた靴を持ち上げ、不審そうにこちらを見てくる。

「何で逃げたんだ?」
「…いきなり声をかけられたから、びっくりして思わず…」

どうやら二人いたとは悟られていないらしい。
そのことに安堵しつつ、レッドは値踏みするように男を見た。
懐中電灯を持っていないことから、おそらく行っていたのはトイレだろう。
警備員が二人という中でテレビを付けて休んでいたということは、見回りの時間帯ではなかったのか、はたまたこの人が不真面目なのか。

「っていうか、こんな時間に女の子が一人で危ないぞ。忘れ物なんて明日でいいじゃないか。さっさと帰ったほうがいいぞ」

一緒に探してあげようと言ってこないあたり、めんどくさがりなのだろう。
何にせよ、真面目そうな人でなくてよかったと、レッドは心の中で独りごちた。

「…えっと、どこも電気がついてないから怖くて…」
「そっか。もう消灯過ぎてるもんな」
「………」
「……どした?玄関までの道が分からないとか?」

明らかに面倒そうに言った男に、レッドは確信を持って警備員の服の裾をそっと掴んだ。

「…ちょっとでいいから、部屋…入れてもらえませんか?」












「くそ…くそ…っ!!」

小さく呟きながらヒビキは一人で捜索を再開していた。
あのままレッドを行かせて良かったはずがない。
それはヒビキにだって分かっている。
それでも、大事な相棒であるピカチュウを託してきたレッドに言い返せる言葉など、あの時のヒビキは持ち合わせていなかった。
とにかく、今自分がやらなければいけないことは、1分1秒でも早くレッドのポケモンを見つけて、レッドの元に帰ることだ。
レッドが警備員を足止めしてくれるのならば、捜索側は人目は気にせずにドアを開けて回れるということである。

"無茶しないでくださいよ…レッドさん…!"

心配そうにカタカタ震えるピカチュウのボールを腰に感じながら、ヒビキは次の部屋のドアノブへと手をかけた。












レッドの予想通り、レッドを部屋に入れて顔を見た途端、男の顔つきが変わった。
この空気はいつまでたっても好きになれないが、今回ばかりは自分で作った空間だ。文句は言えない。

「ごめんなさい…迷惑じゃないですか?」

恐る恐る尋ねてみれば、男は先ほどとは打って変わって、そんなことないよとこちらに笑顔を向けてくる。

「それより、あんまり遅くなると親さんが心配するんじゃないの?
「いえ…忘れ物を取りに行ってくれって頼まれたけど…お父さんもお母さんもまだ当分家には帰って来ないから……大丈夫です」
「…こんな可愛い子放って?」
「……可愛い…ですか?」

喋り方は控えめに。目線は少し上目遣いで。
少し恥じらってみせれば、ほら、すぐに相手の目の色が変わる。

「あぁ、とっても…可愛いよ?」

無骨な大人の男の手が頬に伸びてきて、そのままするすると滑らかな肌を撫でられる。
その手は、首筋に、肩に、そして腰の方へと下がっていく。
身体が震えそうになるのを必死で耐えて、レッドはきゅっと男の服を握った。
その行動をどう思ったのか、男が笑みを零したのが分かった。
しかし今回の目的は、以前とは違い男を興奮させることではない。
時間稼ぎをすることである。
とにかく、何とかしてこの男を部屋から出さなければいいのだ。
問題は、この男がどこまでただの戯れに付き合ってくれるのか…

"…ごめん、グリーン…"

この行動が、自分を好きだと言ってくれたグリーンを裏切るものであることは重々承知している。
自分だって、こんな男と一緒になど居たくない。
触られたくない。
…でも、

"これが今の僕に出来る最善のことなら……僕は躊躇わない"

「それじゃあ、私…の悩み、聞いてくれませんか?」

『それじゃあ、私と遊んで?』と言いそうになったのを慌てて飲み込んで、簡易ベッドの上に座って男を見上げてみる。
男は一瞬複雑そうな顔をしたが、すぐに元の笑みに戻ってレッドのすぐ隣に腰を下ろした。
そのまま腰を引き寄せられて、「いいよ」と耳元で囁かれる。
どうせ『悩み相談料』とでも銘打ってあれこれしてやろうと思っているのだろう。
この職務怠慢野郎がと心の中で毒づいて、腰に回った男の手があまりあちこち動き回らないように、自分の手を重ねて軽く握る。

グリーンの優しさに触れてから、他の男と床を共にするのなんてもう嫌だと思うようになった。
この男の腕も、許されるなら今すぐ振り解いてこの部屋から飛び出したい。
すぐそばに感じる相手の息づかいすらも気持ち悪く感じてしまう。
グリーンとここが違う。グリーンならこうするだろう…
こうして違う男と一緒に居ても、頭に浮かんでくるのはグリーンのことばかりだった。
グリーンと一つになって、今までの自分の行為が全部塗り替えられたような錯覚に陥っていた
でも、違う。
ずっと男を誘い続けてきた身体は、嫌だ、もう改心したのだと言っていても、ちゃんとやり方を覚えている。

"ごめん…ごめん…ごめんグリーン…"

でも、今に限ってはそれでいい。
グリーンのためなら、自分のためならこれくらい構わない。
せいぜい、今だけでもこの男に良い思いをさせてやる。
いつの間にか男の足の間だに収まるような体勢にされていたが、それも甘んじて受け入れる。
とりあえず、今は出来るだけ長い悩み話を考えなければならない。
手を出されそうになったら最悪、口だけで相手してやる。


"ナンバーワンキャバ嬢、百戦錬磨の紅を嘗めるなよ…"
















→14