窓越しに空を見上げた。
月は見えない。
雲に隠れてしまっているのか、ここから見えない位置にいるのか。
この狭い箱から覗く外界は今日も変わらず綺麗だ。
例えそこに一点の輝きさえなくても。
どこかにあるであろうその輝きを想像するだけで十分だから。

___________そう、思えたらいいのに。














         11




「…準備はいいか」
「「OKです!」」
「…っていうか、おまえらホントについてくる気か?」
「当たり前じゃないですか!」「何を今更!」

建物の壁に張り付いたグリーンが首だけを後ろに回せば、あくまで真剣な顔をしたヒビキとコトネが首を縦に振った。
時刻は深夜2時半を過ぎ、完全に草木も眠る丑三つ時である。
少し町外れの草木に囲まれたここは街灯も十分になく、お互いの表情もはっきりとは見えない。
そんな中でも分かるくらいに爛々と目を光らせる後輩二人。
親には何と言ってきたのかとグリーンが問えば、二人そろって「先輩の家にお泊まりする!」ときた。
この二人のことだから、今更帰れと言っても無駄だということは分かっているのだが…

「ここからは本当に遊びじゃねぇんだ。危険だってこと、分かってるんだろうな」
「自分の身くらいは守ります」
「いいか、何かあったらすぐに逃げろよ」
「言われなくても逃げます」

グリーンはあくまで淡々と返すヒビキとコトネを見た。
強要しているわけではないといえ、やはりこの二人を連れていくのは気が引けた。
何せ、相手は平気で人間相手にサイコキネシスを放ってくるような奴らなのだ。
もしこの二人に何かあったら自分はどうすればいいのか。

「…俺はどうなってもいいのか」

控えめにかけられた声に、グリーンはちらりとそちらに目をやった。
ヒビキとコトネの後ろに居心地が悪そうに立つのは、強制連行されてきたシルバーである。

「おまえは別に不法侵入じゃないだろ」

一応この建物の持ち主の息子だしな、と多少毒を持った物言いのグリーンに、シルバーは言葉を詰まらせた。
確かにそうなのだが、父の秘密を知りたいと知りたくないの気持ちで未だに揺れるシルバーからしたら、父と鉢合わせした場合にいったいどんな顔をすればいいのか分からない。
無言でこちらを見てくるコトネに、自分に拒否権はないのだと改めて認識させられるシルバーだが、出来ることなら今すぐここから逃げ出してしまいたかった。
しかしそのような葛藤の時間でさえシルバーには与えてもらえなかった。

「そんじゃ、行くぞ」




少し古びた研究施設のような出で立ちの建物。
掃除は徹底されているのか蜘蛛の巣や目立つゴミは見あたらないが、壁に入る薄い亀裂がこの建物の古さを物語っている。
電気の付いたエントランスは避けて裏口の方に回った一行の先にいたのは、黒ずくめの見張りの男だった。

「何で裏口にも見張りがいるんだよ」
「怪しすぎますねこの建物…見られちゃやばいものでも隠してるのかな…」

見事に進入の出鼻を挫かれたグリーンが、草陰から裏口を覗きながら忌々しそうに舌打ちをして言う。
コトネもさすがに違和感を感じ始めたのか、裏口に椅子を置いてそこに座る目つきの悪い男をじとりと見ている。
男の腰にはボールが5つ。
前回の件もあって、グリーンから見たら正直、保護条例にかかっていないポケモンかどうかも甚だ怪しい。
対する自分は…
腰に二つ付いたボールをすっと指で撫でれば、片方が小さくカタカタと動いた。
もう片方はぴくりとも反応しない…言わずもがな、レッドのピカチュウである。
仮にも自分以外の手持ちであるピカチュウは出すわけにはいかない。
その持ち主を捜し出すためにも、こんなところで油を売っている暇はないのだ。
一度深く息を吸ってからピカチュウではないほうのボールにグリーンが手をかけた瞬間、

「焦らないでください、グリーンさん」

その手を隣のコトネがぐっと掴んだ。
少しだけ驚いて隣を見れば、コトネがニコリと笑って裏口の方を指さした。

「疲れてたのかな?寝ちゃったみたいですよ」
「え…」

改めてそちらに目を向ければ、その見張りの男がこくり、こくりと船を漕いでいるのが分かる。
そしてグリーンが見つめる先で、その男は完全に頭を垂れてしまった。
何が起きたのかと困惑した表情のグリーンはそのままに、コトネとヒビキは草陰から躊躇なく身体を起こし、裏口に向かって歩いていく。
その後をとことこと付いていく小さな影を認めたとき、グリーンはやっと合点がいった。

「チコリータ…〝くさぶえ〟か…?」

チコッと控えめに返事をしたチコリータが、振り返って得意げな顔をグリーンに見せる。
どうやら草むらに紛れて男に近づき、技を発動させていたようだ。
コトネは無言で頷くと、熟睡する見張りの横を素通りして裏口のドアを静かに開け、廊下に誰もいないことを確認した後にグリーンを手招きした。
グリーンも小さく頷いて、居心地が悪そうに後ろに佇むシルバーを目線だけで促す。
シルバーは一瞬たじろいたが、次の瞬間には諦めたのかおとなしくグリーンの後に続いて草陰から立ち上がった。






建物内の廊下は外観にそぐわず小綺麗だった。
どうやら思った以上に人が出入りしているらしい。
付けっぱなしの電気といい、これはかなり人とすれ違う確率が高そうだとグリーンの中で少しだけ緊張が高まった。
しかし、静かな建物内は耳を澄ませていれば大抵の足音は聞こえてきそうであるし、幸いにも十字路が多い作りの廊下のため、誰かと鉢合わせになりそうになっても回避しやすそうである。

「で、グリーンさん。私たちは誰を捜してるんですか?レッドさんってことでいいんですか?」

今更ですけど、とコトネが小声でグリーンに尋ねた。
言われてグリーンの思考はしばらく固まった。
そういえば、どうなのだろう。
レッドはレッドで間違いないのだが、もしかしたら男のレッドではないのかもしれない。
攫われた瞬間は女の姿であったわけだし…

「ん、んー……とりあえず、黒髪で、目が赤いやつ…」

性別には敢えて触れずにそれだけ答える。
コトネは歯切れの悪いグリーンに訝しげな視線を寄越すが、次の瞬間ハッと目を見開いた。
微かに聞こえた足音。
音が反響してどこから聞こえてくるのかいまいち分からないが、こちらに向かって近づいて来ているのは確実。
他の全員も一泊遅れて足音に気づいたらしく、顔が僅かに強張る。
とりあえず今来た方向に戻ろうと皆が踵を返した瞬間、シルバーの靴がコツ、と小さな音を鳴らした。

「っ!?」「アホッ!」

小声で罵倒するももう遅い。
「誰かいるのか」と向こうから声がかかる。
速くなる足音。近づいてくる気配。

「責任とってねシルバーくん」
「え…」

コトネがニコリと微笑むのがシルバーの目の端に映った。
そのまま肩に軽い衝撃がきて、肩を廊下側に押されたのだと分かる。
いきなりの衝撃にバランスを崩して倒れ込んだ十字路の廊下の先に、一つの人影が迫っていた。
バクバクと急激に鼓動を早める心臓。

「…こんな所でいったい何をしているんだ?」

聞き慣れた低い声。
シルバーの背中に冷たい汗が伝う。
ゆっくりと顔を上げれば、

「お、親父…」

最も遭遇したくなかった相手がそこに立っていた。






「おい、シルバーのやつ大丈夫かよ」
「まぁなんとかなるでしょ。一応ここの持ち主のお坊ちゃんなわけですし」

先程グリーンが述べた内容をそのままグリーンに返しながらコトネが腰のボールに手をかける。
召還スイッチが押されたそのボールから、一度は戻されていたチコリータが再びその姿を現した。
進化系であるベイリーフやメガニウムは条例で保護指定を受けているが、進化前であるチコリータは指定から外れている。
コトネのチコリータも、進化しない限り取り上げられることはない。
恐らく首にかけられている『かわらずのいし』がチコリータのままでいさせているのだろう。
極力音を立てずに疾走する3人だったが、不意に数メートル先のドアが開いて全員同時に息をのんだ。
隠れる場所は…ない、というか、ドアから出てきた中年の男性が驚愕した表情でこちらを見て固まっている。

「ちっ、チコリータ、〝くさぶえ〟!」

指示を受けたチコリータから、不思議と耳に馴染む甲高い音色が発せられる。
ヒビキとコトネが同時に耳をふさいだのを見てグリーンも慌てて耳をふさいだ。
見事にその音色を聞いた男がふにゃりと崩れ落ちてドアの前で俯せに倒れる。
しかし、それを確認してホッとしたのもつかの間、開いたままのドアからもう一人研究員らしき人が出てきた。
いきなり倒れたその人を心配して出てきたらしい。

「もっかい〝くさぶえ〟!」

しかし今度は外れてしまい、コトネの声に反応したその研究員がこちらを険しい顔で見てくる。
そしてその腰のボールに手をかけたところで、

「ヒノアラシ、〝えんまく〟」

すでにボールから出ていたヒビキのヒノアラシからその研究員へと黒い靄が放たれて、彼の視界を黒く覆った。

「くっそ、いけメタグロス!」
「っ!」

視界をやられてがむしゃらに投げられたボールから出てきたのはメタグロス。
狭い廊下にメタグロス。
3人全員が心の中で「あほか!」とつっこむが、しかしヒビキにとってはこれは好都合である。

「〝ふんか〟!」

指示を受けた途端ヒノアラシの背から猛火が吹き出し、その勢いのままに、動くこともままならないメタグロスの身体に降り注がれる。

「ヒノアラシ、もう一回〝えんまく〟!」

今度は廊下全体に撒き散らされた黒い靄。
ヒビキの「行こう」の声のままに、3人はその靄の中を突っ切ってすぐ先の曲がり角を曲がった。

「おいおい…噴火覚えてるとか、おまえのヒノアラシレベルいくつだよ…」
「え~…今57くらいですかね?」
「え!ヒビキくん前より上がってない!?」
「そりゃあコトネには負けたくないからね」
「むぅぅ~!私もすぐに追いつくから!!」

まじかよ、という言葉はコトネによりかき消されてしまった。
掛け合いから察するに、コトネのチコリータも同レベルくらいということだろうか。

「それは頼もしいことで…」

苦笑しつつ、派手に暴れてしまったことにグリーンは内心頭を抱えた。
草笛ならば穏便に済ませられたものの、ヒビキが煙幕+噴火という何とも派手な技を披露してくれたため、これはもう、侵入者ありと館内中に知れ渡るのも時間の問題だろう。
というか、今まさに何かジリリリという警報音が鳴り響いている。

「手分けして探しましょうグリーンさん」

2回へと繋がる階段を二段飛ばしで駆け上がりながらヒビキがグリーンに言う。
見たところ1階はすべて研究施設になっているようである。
階段を上りきれば、2階には炊事場や連なる同じ形のドアが見えた。
どうやら個室などは2階に設けられているらしい。
しかし、シルバーのおかげでサカキが今日ここに来るという情報だけは掴んだものの、ここにレッドがいるという保証はないのである。

「…おまえら、人が集まってくる前に逃げろ」
「今更何言ってるんですか」
「そうですよ」

あからさまに顔をしかめてヒビキとコトネがグリーンの肩をバンバンと叩く。
コトネの足下にいるチコリータも「チコチコッ」と怒ったように飛び跳ねている。

「完全に侵入失敗だろうが」
「グリーンさんも一緒に逃げるんならいいですけど~」
「どうせ私たちが逃げた後も一人で探すつもりなんでしょう?」

二人のまっすぐな目がグリーンを射抜く。
グリーンはグッと言葉を詰まらせると、がりがりと頭をかいてヒビキとコトネの頭を軽く叩いた。
何を言っても聞かなさそうな二人には………何を言っても結局無駄だ。

「で、手がかりは無しですか?」

コトネが叩かれた頭を押さえながら憮然とした表情で言う。
グリーンはあの文化祭の時のサカキを思い出していた。
確かあのときは、トイレの周りにフーディンが壁をはっていた。
今回も、何の対策もなしに部屋に閉じ込めている、ということはないだろう。

「エスパーポケモンがいる部屋の近く…かもしれない」
「了解です」
「見つけたら大声で叫ぶんで、グリーンさんもちゃんと叫んでくださいね」
「誰が叫ぶか」

最後にもう一度二人の頭を軽く小突いて、グリーンはニッと不敵な笑みを浮かべた。
それにコトネとヒビキも笑って頷いて、3人はバラバラに散った。
グリーンはとりあえず一番近い部屋へと近づくと、躊躇いなくそのドアを開けた。
中には誰もいない。
この時間帯であるし、建物内にいる人も起きている人も少ないだろうという目論見だったが、どうやら間違いではないらしい。
中にはベッドと机、軽い家具などしかなく、どちらかと言えば仮眠室のような印象を受ける。
グリーンはドアは開け放したまま隣の部屋に行き、同じく躊躇無しにドアを開けた。
またハズレ。そして次のドアへ。ハズレ。次もハズレ。
片っ端からドアを開けていく。
そして6つ目でようやく鍵のかかったドアに当たった。

"…期待はしてねぇけど"

「頼んだぞ、イーブイ」

元気良くガタガタ揺れる腰のボールに手を伸ばす。
召還スイッチを押すと同時に、中から小型のポケモンが飛び出した。
白と茶の毛並みをふわりと揺らしながら床へと降りたったのは、保護条例で取り上げられなかったイーブイである。
イーブイは嬉しそうにグリーンの足下を一周回ると、そのまま加速をつけてドアへと突進した。
大きな衝突音とともに、ドアが向こう側へと倒れる。
その部屋の中についに人影を見つけた。
どうやら警報ベルでも起きず、今のドアの破壊音でようやく目を覚ましたらしい。
ベッドの上から呆然とこちらを見るのは、予想通りレッドではなかった。

「イーブイ、〝あくび〟」

グリーンは、ここにもう用はないとばかりに言い捨てると、すぐさまその部屋を出た。
イーブイもボールを探してあたふたし始めた相手に向かって技を放つと、すぐにグリーンの後について部屋を出る。
おそらくボールを探し当てた頃には再びベッドに突っ伏すことになるだろう。
グリーンはイーブイが部屋から出てきたのを横目で捉えながら、次の部屋のドアを開け放った。
今度はハズレ。
そしてその隣のドアのノブに手をかけた瞬間、ヒビキの自分を呼ぶ声が耳に入ってきた。

「グリーンさん!グリーンさぁぁぁあん!!グリィィンさぁぁあぁあああん!!!」
「一回で聞こえるわアホ!!」

グリーンは負けじと叫び返すと、ヒビキのいる反対側の通路へと疾走した。
T字路から左を見れば、開け放たれたドアの前にヒビキが、右を見ればこの建物の研究員らしき女性がヒビキの方へと迫っている。
そのちょうど中間にいたグリーンは、白衣からボールを取り出したその女性の前に立ちふさがった。

「よぅ、俺とバトルしない?お姉さん」

無言でボールを投げてきた女性にニッと笑みを浮かべると、グリーンはイーブイをボールに収めた。

「…と思ったけど、やっぱりやめるよ」
「は…?」

いきなり戦闘態勢を解除して後退し、耳を塞いだグリーンに、女性はハッとして後ろを振り返った。

「チコリータ〝くさぶえ〟、プリン〝うたう〟!」

そう、グリーンには後ろから女性にそろそろと忍び寄るコトネが見えていた。
至近距離で眠り技をダブルで使われた女性は、ポケモンをボールにしまうことも出来ずに廊下に崩れ落ちることになった。
ついでに指示待ちの状態でスタンバイしていたポケモン、ハブネークもすやすやと眠り始める。
コトネは眠るハブネークを踏みつけないように通り過ぎると、プリンは廊下に置いたままグリーンの背を追って先の部屋へと躍り込んだ。
部屋の中では既にヒビキのヒノアラシがバリヤードと対峙している。

「グリーンさんは隣の部屋行ってください!私とヒビキくんで一瞬です!」
「っとわ!?」

コトネはグリーンを部屋から押し出すと、既に光を吸収し始めているチコリータの後ろに回った。

「ヒノアラシ〝ふんか〟!」
「チコリータ〝ソーラービーム!〟」

瞬間、眩い光線と灼熱の業火が部屋を包み込む。
グリーンはコトネに押し出されるがままに廊下へ出ると、隣の部屋のドアノブを捻った。
鍵がかかっている。

「おいレッド!いるのか!?」

ドアをドンドン叩きながら叫ぶが、中から反応はない。

「くっそ、いたら返事しろ!バカレッド!!」

先程と同様にイーブイがドアに突っ込むが、今度は逆にイーブイがドアから弾き飛ばされることになった。

「何やってんですかグリーンさん!」

隣の部屋から出てきたヒビキとコトネが壁に叩きつけられたイーブイを目の当たりにして顔をしかめた。

「おまえらバリヤード倒したんじゃねーのか!?」
「倒しましたよ!」「超瀕死ですよ!」
「じゃあ何でドア壊れねーんだよ!」
「イーブイの威力が足りないとか!?」
「バカやろう!俺のイーブイをバカにすんなよ!?」
「ちょっとどいてくださいグリーンさん!ヒノアラシ〝すてみタックル〟!」
「チコリータも〝のしかかり〟!」

トレーナーがギャーギャー言い合ううちにも、指示を受けた二匹のポケモンは渾身の力で以てドアへと突進する。
しかし、その2匹もイーブイと同様弾かれてその勢いのままに床へと転がった。

「えぇー!?どうして!」
「このドアだけおかしくないですか!?」
「………」

さすがにおかしいと感じたグリーンは、次の瞬間ハッとして隣の部屋のドアノブを回した。
こちらも鍵がかかっている。

「ヒビキ、この部屋はまだか!?」
「あ、はい。まだ見てないです」
「イーブイ!」

体勢を持ち直したイーブイが今度こそとドアに向かって突進する。
激しい衝突音の後、ドアが向こう側へと倒れた。

「またおまえかよ…」

苦虫を噛み潰したような顔でグリーンが呟く。
窓際に佇むのは、これで3度目の対面となるフーディンだった。
どうやらバリヤードとフーディンで二重の壁を作っていたらしい。
ドアを壊して部屋に転がり込んだイーブイがフーディンから距離を置こうと後退するが、イーブイが体勢を立て直すよりもフーディンがスプーンを掲げるほうが早かった。
部屋が一瞬ぐにゃりと歪む。
グリーンはこの感じを前にも経験したことがあった。

「イーブイ、〝こらえる〟!!」

迷っている暇はなかった。
グリーンは叫ぶのと同時に、部屋の中を見ようと身を乗り出していたヒビキとコトネを自分の方へ引き寄せると、その勢いのままに床に伏せた。
伏せるとほぼ同時に、頭のすぐ上を目に見えない衝撃波が通る。

「ふぇ!?」

いきなり床に押し倒されて目を白黒させるヒビキとコトネの頭の上に、細かな瓦礫がパラパラと降り注いだ。
そろりと頭を上げて正面の廊下の壁を見れば、今まで平だったそこは円形にへこみ、周りに大きな亀裂が走っている。

「「えぇえぇぇえええええっ!?」」
「イーブイ!!〝じたばた〟!!」

ヒビキとコトネの身体は床に押しつけたままに、グリーンが半身を起こして部屋の方へと叫ぶ。
なんとかフーディンのサイコキネシスに耐えたイーブイは、主人の命令通りにフーディンへと突っ込んだ。
体力ギリギリで放たれた技は、ほぼ最大威力である。

「俺の適応力イーブイなめんなよ!?」

相手が床に倒れたのを確認して、イーブイが嬉しそうにグリーンの元へと戻っていく。
グリーンもそんなイーブイを迎えようとして、ヒビキとコトネを押さえつけていた手を離して腰を上げる。
しかし、そこで腰のボールがガタガタと激しく揺れているのに気がついた。
グリーンの今現在の手持ちは1匹だけ。
もちろん犯人はレッドのピカチュウということになる。

「…?どうした、ピカチュウ…」

問いかけるも返事が来るはずもなく、ボールは激しくガタガタと揺れるばかり。
あたかも「出せ」とでも言っているような暴れっぷりに、グリーンは困惑したままピカチュウの入ったボールの召喚スイッチを押した。
瞬間、召喚光と共に地面に降り立ったピカチュウが、すぐさまフーディンへと走った。

「!?」

そしてグリーンもやっと気づいた。
ピカチュウを追った視線の先、フーディンが倒れた体勢のまま、イーブイにスプーンの切っ先を向けようとしているのを。





***





「ここで何をしているのかと聞いているんだ」
「そ…れは……」

シルバーの思考は完全に停止していた。
目の前に立つ父、サカキは鋭い目でシルバーを射抜いてくる。

「ちょ、ちょっと入ってみたくて…それで…」
「…それで?」
「こっそり入ってみたのはいいけど…なんか警報機が鳴り出して…」
「おまえ一人か?」
「……はい」
「………」

サカキはしゃがみ込んだまま目をそらせたシルバーをじっと見ていたが、ため息を一つつくと踵を返した。
相変わらず警報音は止まない。
シルバーは慌てて顔を上げた。
サカキを行かせてはいけない。
もしこれでコトネが捕まったりしたら、後々何を言われるか分からない。
もしかしたらコトネに握られている秘密がサカキの耳にも入るなんてことがあるかもしれない。

「ま、待ってくれ親父!」
「…なんだ」
「この研究所は…何を研究しているところなんだ?」
「…おまえには関係ないことだ」

何か話題をととっさに口に出た質問だったが、サカキのあまりにもぞんざいな答えにシルバーはカチンときてしまった。
思わず顔を上げて、その立ち去ろうとする背中に向かって叫んでしまう。

「…関係なくない!!俺はあなたの子供だ!」
「だからと言っておまえが知る必要はない。子供だからこそ知れたくないということもあるだろう」
「こんな時だけ父親面するな!……言ってくれないなら当ててやるよ…もしかしてここに誰か監禁してるんじゃないのか!?」
「………」

そこでずっと背を向けていたサカキがやっとシルバーのほうを振り返った。
思わず足がすくんでしまうほどの眼光。
口を開いたままの状態で何も言えなくなってしまったシルバーをじっと見ていたサカキだったが、次の瞬間には腰のボールに手を伸ばしていた。
目映い光と共に召還されたポケモンと目が合う。

「〝さいみんじゅつ〟」

一瞬世界がぶれる。
そして次の瞬間にはシルバーの意識は急速に遠のいていった。
朦朧とする視界で最後に見えたのは、自分を置いてその場から足早に歩き去る父の背中だった。





***





「逃げろイーブイ!!」

本当に一瞬の出来事だった。
イーブイが慌ててフーディンのほうを振り返る。
起き上がったフーディンの目が、完全にイーブイをとらえる。スプーンを持ち上げる。

「ビガアアァァアッ!」

しかし、地面に着地したと同時にフーディンへと突っ込んだピカチュウが一番速かった。
ピカチュウの電光石火を喰らって壁まで吹っ飛んだフーディンは今度こそ動かなくなる。
どうやら気合いの襷でイーブイの攻撃を持ちこたえていたらしい。
目の前の展開について行けずに唖然とするグリーンの元に、イーブイが飛び込んでくる。
なんとか我に返って瀕死間近のイーブイをボールに戻したグリーンだったが、その間にもピカチュウの勢いは止まっていなかった。
バチバチと音を立てる電撃が、暗い部屋を眩しいほどに明るく照らす。
その光はどんどん大きくなり、その光の中心であるピカチュウもはや視認できないほどになっていた。

「な、何が起こってるの!?」
「ひゃあぁぁああっ!!」

遠くでヒビキとコトネの声が聞こえる。
グリーンは前が見えないほどの光の渦の中で、なんとか立ち上がった。
ピカチュウのやろうとすることが、なんとなく分かった。

「頼むピカチュウ!!」

瞬間、耳をつんざく程の轟音と共に、その光の渦が壁に向かって弾けた。
壁に大きな穴があき、バラバラと瓦礫が崩れる。
グリーンは迷うことなくその穴へと身体を躍らせた。

「レッド!!」

居て欲しい。
お願いだから、居てくれ…!
祈るような気持ちで足場の悪い部屋へと降り立つ。



「グリーン…?」
「……っ!!」



砂塵が舞う中でなんとか薄目を開ける。
声が聞こえた。
随分と長いこと聞いていなかった気がする…ずっと探し求めていた人の声。
間違えるはずがない。
ずっと聞きたかった…声。
途端に心臓がバクバクと早鐘を打ち始める。

「レッド、いるんだな!?」

グリーンは砂が目に入るのも構わずに目を開いた。
ベッドと机、軽い家具しかない、先ほど見たのと同じ作りの部屋。
しかし、先ほどと雲泥の差なのは、そのベッドの上に探し求めていた人がいることだった。

「レッ…ド…」

瓦礫を飛び越えてゆっくりとベッドへと近づく。
目への異物で視界が微妙に歪んでいたが、レッドが呆けた顔でこちらを見ているのは分かった。

会いたかった。
ずっと会いたかった。
死ぬほど会いたかった。

「レッド…!」

手を伸ばす。

「グリ…」

手が、届いた。
あのとき、伸ばしても届かなかった、手が。
その肌に、触れる事ができた。

「何で…来たの…?」

レッドの声が震えていた。
触れた肌も、少し震えていた。
躊躇せずその身体を強く抱きしめる。
ビクリと、レッドの身体が大きく震えた。

「会いたかったから、来た…」
「僕だって…会いたかった……でも…!」
「こんなとこ今すぐ出るぞ」
「…っ!」

少し抱きしめる力を緩めてレッドの顔を窺う。
レッドの目からは大粒の涙がぼろぼろと溢れていた。

「駄目…出れない…僕が逃げたら…グリーンが…」
「俺の心配なんていらねぇ!!」
「でもっ!!」
「レッドを犠牲にした平和なんて御免なんだよ!!俺はおまえがいないと駄目なんだよ!!」
「…何その熱烈な告白…」

今度はレッドからグリーンの背中へとおずおずと腕が回された。
グリーンは再びレッドを強く抱きしめる。
もう、二度と逃すまいと、強く。

「馬鹿…馬鹿っ…グリーンの、馬鹿………会いたかったっ…よ…」

嗚咽混じりの声が至近距離から聞こえる。
胸に額をぐりぐりと押しつけてくるレッドがどうしようもなく愛しい。
ずっとこの幸せに浸っていたかったが、そういうわけにはいかない。

「続きは…後でしような」

とにかく、今はこの場から逃げなければならないのである。
レッドにそっと囁いたグリーンは、ゆっくりとレッドを抱きしめる腕を緩め、名残惜しげにその身を離した。
改めて見れば、レッドはシーツ一枚を身に纏っているだけで、他には何も着ていない。
そして追い打ちをかけるように、見事に女の姿だった。

「おまえ…服とか…」
「ない…」

ばつが悪そうに目をそらせたレッド。
グリーンはそこでようやく、鼻につくようなあの情事後独特の臭いに気づいた。
よく見れば、シーツも散々に汚れている。
分かっていたこととはいえ、改めてサカキとレッドの関係を認識してしまうとどうしてもこみ上げくる怒りを止めることができなかった。
グリーンは小さく舌打ちすると、レッドの肩に自らが着ていたジャケットを掛ける。
そしてそのままシーツごとレッドを抱き上げた。

「グ、グリッ!」
「ちょっ、グリーンさん!何やってんですか!?」
「えぇえぇえええっ、ちょっ、えぇえぇええええっ!!??」

レッドが非難の声を上げるのと、ヒビキとコトネが部屋に入ってきたのはほぼ同時だった。
レッドはいきなり聞こえた聞いたことのある声に、ギョッとして穴の開いた壁の方へと目を向ける。
ギョッとしたのはヒビキとコトネも同様で、いつかバトル会場で見たことがあるような顔にただただ目を丸くするばかりだった。

「話は後だ!とりあえずここから出るぞ!!」
「それは困るな」
「っ!!」

突如割り込んできた低い声。
一同はギョッとして穴の方を振り返った。
そこに立つのは、やはり出来ることならば会いたくなかった、あの男だった。

「サカキ…」

グリーンは忌々しげにサカキを睨み付ける。
絶対に許せない相手。
しかし、今のグリーンはその憎むべき相手を叩きのめす手段を持ち合わせていない。

「わ、私のプリンは!?」

コトネが震える声でサカキに言う。
先ほど廊下に置いてきたプリンには、部屋に入ろうとする者をすべて眠らせろという指示を出している。
要するに、ドアの前で歌い続けていたはずだ。
なのにサカキはここへと入ってきた。

「ああ、こいつのことか?」

サカキは小さく口元を歪めるとピンク色の丸い物体をコトネの方へと投げてきた。
コトネは慌ててそのポケモン、プリンを受け止める。
動くことも億劫そうなほどに弱り果てたプリンを見て、コトネはショックを受けたようにその場にへたり込んでしまった。

「さぁ、よい子はもう寝る時間だ。とっとと帰りなさい。今おとなしく言うことを聞けば不法侵入と器物破損については広い心で許してあげよう」
「ああ、もう帰るよ。レッドも、だけどな」
「それはできない相談だ」

サカキの手が腰のボールへと伸びる。
グリーンは一歩後ずさった。
今の自分は戦えるポケモンを持っていない。
どうすればいい。
焦るうちにも、サカキのボールからポケモンが召喚されてしまう。
目の前にそびえ立つ、巨大なガルーラ。
ストップをかける間もなく、その腕がグリーンとレッドのほうへ勢いよく伸びてくる。
しかしその腕が二人へと届く寸前、間に黄色い閃光が走った。

「ビガァアァッ!」
「!?」

瞬間、目の前を激しい電撃が走り抜けた。
思わず目を瞑ったグリーンと対照に、レッドはその電撃の主を認めようと目を開く。

「ピ、ピカチュウ…?」

レッドが呆然と呟いた瞬間、ガルーラの上に物凄い轟音と共に雷が落ちた。
いきなりの妨害に唖然とするサカキの目の前で、呻き声とともにガルーラが地に伏す。
しかしガルーラを一撃で沈めただけでは終わらず、その雷の主、ピカチュウの身体には再び電気が集まり始めていた。
レッド以外、誰も何が起こるのか予想できなかった。

「ヂュウゥウゥゥ!!!」

耳をつんざくような轟音。
目の前が真っ白に染まるほどの光の暴発。
そして、不意に感じた、浮遊感。
足下が崩れたのだと理解したのは、完全に身体が下降し始めてからだった。

「お願いプリン!」

我に返ったコトネは、瀕死間近のプリンに懇願するように命を出した。
その途端、コトネの腕から下方向へと勢いよくプリンが飛び出す。
プリンは、地面に衝突する直前に大きく息を吸い、膨張した身体で主人であるコトネ、コトネの傍らにいたヒビキ、そしてグリーンとレッドを受け止めた。
弾力で跳ね返されてそのまま地面に転がるものの、衝突の衝撃の大半をプリンが受け止めてくれたため、皆たいした傷は負っていない。
コトネはすぐさまプリンとボールへ戻すと、部屋の中をぐるりと見渡した。
暗い部屋の中はよく分からない機械で埋め尽くされ、そこらかしこに上から落ちてきた瓦礫と共に書類が散らばっている。
どうやら2階の床をぶち抜いて1階に落ちたらしい。

「行くぞ!」

気がつけば、グリーンがすでに部屋の窓を開けて外へと身体を乗り出していた。
その背中にはしっかりとレッドが背負われ、そしてその肩にはピカチュウが乗っている。

「はい!行こうヒビキくん!」
「う、うん」

打ち所が悪かったらしくふらふらしているヒビキの腕を掴んで立たせると、コトネも窓の方へと足を向ける。
最後にちらりと振り返った部屋には、低く呻き声を上げるガルーラとともに倒れるサカキの姿が見えた。








***






「レッド、へ、平気か…?」
「ん…大丈夫」

草木が茂る暗い夜道を抜けて、一同は明かりの灯る町の中へと足を踏み入れていた。
本当はグリーンの家に戻るつもりだったのだが、レッドは万が一サカキが追ってきたときのことを考えたのかそれを拒否した。
そして辿り着いたのは一日中明かりが付いているポケモンセンターの前。
保護条例が出てから利用者は格段に減ったものの、年中無休、24時間営業なのは変わらずに運営は続いている。
ポケモンセンターには地下に簡単な宿泊施設がついているため、格安の旅の床として利用する人も少なくない。
ポケモンもボロボロのため、回復するのにちょうどよかったかもしれないと考え、グリーンはレッドのお願いに頷いたのだった。
自動ドアをくぐれば、こんな夜中にも関わらずジョーイさんが笑顔で迎えてくれる。

「こんにちは、ポケモンセンターで……えっ」

しかし今回ばかりはそのジョーイさんのおきまりの文句も最後まで紡がれることはなかった。
全身真っ黒でボロボロ(しかも一人はまともに服も着ていない)な一同にギョッとしたように目を丸くする。
訳ありだと察してくれたらしいジョーイさんは、ピカチュウを含めた皆のポケモンを預かるとすぐに開いた部屋を案内してくれた。

「それじゃおまえら、明日も学校あるんだから遅くても7時に起床だからな。とっとと風呂入って寝ろよ」
「グリーンさん、詳しい話は…」
「んなもんまた明日だ。今日はもう休め」

グリーンは諭すように言うと、レッドを抱えたままドアノブを回して部屋へと足を踏み入れた。

「…グリーンさん、あの…一緒の部屋…?」

コトネがおそるおそる当然のようにレッドと相部屋をしようとしているグリーンに問いかける。
半裸の女性と同室なんて、不健全以外の何でもない。

「ああ、気にすんな?」
「気にします!危なすぎます!」
「大丈夫、気にしないで」
「え…」

グリーンの背中のレッドが小さく微笑む。
女性本人に大丈夫と言われてしまってはどうしようもない。
唖然とするコトネ、そしてヒビキの前で、ドアはパタンと軽い音と共に閉められてしまった。













「レッド…」

研究室といい勝負の簡易ベッドの上にレッドを横たえたグリーンは改めてレッドをじっと見つめた。
レッドもグリーンをじっと見つめ返す。

「これで…グリーンも狙われることに…なったんだからね…」

ぽそりと、咎めるようにレッドは言った。
身を犠牲にしてでも守りたかった人は、身を犠牲にして鍵のかかった籠の中から自分を助け出してくれた。

「そんなの…おまえがいないことに比べたら断然マシだよ」
「…いちいち恥ずかしくないの?」

少しだけ呆れたようにグリーンを見上げるレッドの髪をさらりと撫でると、グリーンは「全然?」と悪びれもせずに返した。
髪を撫でた手はそのまま頬へと滑り、自然に唇が重なる。
触れ合った箇所が熱い。

「…ん」

レッドは恥ずかしそうに、しかしどこか嬉しそうにグリーンを引き寄せて、もっと、とねだるようにグリーンの口端へと唇を寄せた。
ちゅ、と小さなリップ音が静かな部屋の中に響く。
グリーンはそれにもう一度応えると、ゆっくりとレッドが唯一全身に纏うシーツを捲った。
途端、レッドはハッとしたようにシーツを押さえて小さく身じろぐ。

「ごめ、グリーン…お風呂、入らせて…?」

懇願するように見つめられるが、それには応えずに羽織らせていたジャケットを取り、嫌がるレッドから無理矢理シーツを剥ぐ。
そこにあるのは白磁のように白い肌、そして、そこに無数に散らばる赤黒い鬱血痕だった。

「………」
「お願い、見ないで…」

泣きそうな顔で身体を隠すレッドだが、その鬱血痕は両腕だけでは到底隠しきれない量だった。
また、まだシャワーを浴びれていなかったらしい身体は、情事の後を思い起こさせる名残を色濃く残している。

「お願い、グリーン…」
「駄目だ」
「え…」

瞬間、レッドの頭上に影が差す。
そして抵抗する間もなく、レッドの身体はあっという間にグリーンに組み敷かれてしまっていた。
身体に口づけが落ちてくるたびに、レッドの身体が大きく震える。

「グっ、グリ……ン!…せ、せめてお風呂入らせて…」
「駄目だ。この臭いも、痕も全部俺で塗り替えてやる…」

その鬱血痕の一つ一つに、優しく、しかし執拗に唇を重ねていく。
レッドは諦めたように身体の力を抜くと、ベッドへと弛緩した身体を沈めた。
グリーンの髪が肌を掠めるのがくすぐったくて、なんだか気持ちよかった。

「…ずっと、酷いのばっかりだったから……優しくしてほしいな」

不意に紡がれた言葉に、グリーンの動きがぴたりと止まる。
グリーンは少しだけ驚いたようにレッドを見たが、次の瞬間、ニッと不敵な笑みを浮かべた。

「あぁ、嫌になるくらい甘くしてやるから覚悟しとけよ」
「……期待してる」

レッドもふわりと微笑むと、グリーンの肩口に顔を埋めて息を大きく吸い込んだ。
優しい、大好きな人の匂いがした。














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