伝説のポケモン、ジラーチ。
願い事ポケモン。
1000年間で7日間だけ目を覚まし、どんな願い事でも叶える力を使うという。
『さぁ、願いを叶えてくれ!』
主の言葉に、ジラーチはゆっくりと瞼を持ち上げた。
眩い光が身体の周りを包んでおり、ジラーチからはその外がうまく見えない。
『願いは……こいつ…レッドを女に――――』
一つ目の願い事。
頭に下がる短冊が主の願い事を認識し、先ほどよりもいっそう強く光を放つ。
寝起きのような、ぼんやりと靄がかかったような頭。
しかし願い事は自分の意志とは関係なく、確実に遂行される。
『やっ、うあ…っ、あっ、ああぁぁあぁあああっ!!』
誰かの叫び声が聞こえる。
目がつぶれそうな強い光にもだんだん慣れてきて、その叫び声の主の姿も見えるようになってきた。
地面に落ちた赤い帽子、それが乗っていたであろう漆黒の黒髪。
見開かれた、同じく漆黒の双眸。
地面をのたうち回るその身体は、手が後ろで縛られているのも手伝ってひどくつらそうだ。
そしてその周りには、6つのモンスターボールが散らばっている。
『やめっ…お願っ、あぁああぁああっっ!!』
涙を零しながら叫んでいる。
あぁ、つらそうだ。苦しそうだ。
"やめて、お願いやめて、やめるんだ、やめてよ、やめて、やめて!!"
あぁ、なんだかたくさんの声が聞こえる。
どこから?
"やめて、やめろ、やめろ、やめろ、やめろ、やめろ!!"
あぁ、困ったな。
主の願いは絶対なのに。
しかし、その切実な6つの願いは、直接に身体本体へと飛び込んでくる。
熱くて、真っ直ぐで、とても純粋で…綺麗で…
二つ目の短冊が先ほどと同様に光を放ち始める。
一つ目の願い事を無効にするわけにはいかない。
ならば、
二つ目の願い事は――――
10
「お目覚めかい、レッド?」
「………」
レッドは無言で腰に回された手をふりほどいた。
そのままゆっくりと身体を起こせば、下半身の鈍痛に思わず顔をしかめることになる。
レッドは未だに荒い息をなんとか整えると、額に滲んだ汗を手の甲で拭った。
「朝からずいぶんと機嫌が悪いようじゃないか」
「…こんな至近距離で見れたんだから満足でしょ?」
ぼそりと呟けば、隣でまだ横たわっているサカキが小さく口端をつり上げた。
レッドはそれを見てさらに顔をしかめる。
カーテンの隙間からは、まだ弱々しいばかりの光しか射してこない。
おそらくまだ5時前だろう。
ずいぶん早起きだな、と嫌みのように付け足してレッドはベッドから出た。
まだ身体の熱が引かない。
バクバクと五月蠅い心臓を上からグッと押さえて、レッドはシーツを引っ張って身体に引っかけてからベッドの下に座り込んだ。
半分以上シーツを持って行かれたサカキが苦笑するのが雰囲気で分かる。
…分かってしまうのが、嫌だ。
レッドはギュッと目を瞑ると顔を隠すように膝に顔を寄せた。
だいぶ呼吸は落ち着いてきた。
日が昇って男に戻る瞬間を、サカキはずっと興味深そうに見ていた。
レッドが逃げられないように身体を後ろから抱え込んだまま…
以前はサカキがやってくるのは夜になってからであったし、いつも朝起きた時にはすでにいなかった。
だから直接変わるところを見られたことはなかった。
…こんなの、前の方がましだ。
泣きたいのをグッと堪えて、レッドは強く唇を噛んだ。
どうせ今回も部屋から出してなどもらえないのだ。
窓にもドアにもポケモンによって壁が張ってあるに違いない。
その壁の丈夫さは以前の時に身をもって経験済みだ。
「そうだ、レッド。一つ聞きたいことがあるんだが、いいかな」
「………」
無言でぴくりとも動かないレッドにはかまわずに、サカキはレッドの肩に手を置いてくる。
「ピカチュウは、どこへやった。持っていないじゃないか」
「…逃がした」
「は?」
「だから、逃がした」
顔を伏せたままそう呟いたレッドに、初めてサカキの顔が曇った。
「…どういうつもりだ」
「おまえに捕まるくらいなら、野生に帰した方がましだって思った。グリーンに、逃がすように頼んでおいた。主人の命令なら、ポケモンは従ってくれるだろ…」
「相棒じゃないのか?」
「…おまえがあの馬鹿げた条例を廃止したら…また、トキワの森に捕まえに行く。必ず、どれだけかかっても見つけ出すから…だから、それまで…」
「………」
レッドはそれきり口を噤んでしまった。
サカキもそれ以上は追求せずに、服を着ると黙って部屋から出て行く。
その一瞬開かれたドアはすぐに閉まり、レッドは部屋に一人になる。
「っく……ぅ…うぅっ…」
その途端に静かな部屋にわずかに漏れ出た嗚咽。
もちろんその主はレッドである。
レッドはカタカタと小さく肩を震わせながら、その場に突っ伏して両手で顔を覆った。
「ピカチュ…ピカチュウゥ…!」
嗚咽はだんだんと大きくなり、時折その中に相棒だったポケモンの名が混じる。
その深紅の双眸からは止め処なく涙が溢れ、顔を覆うその両手を濡らしていた。
大好きだった相棒。
最強だった相棒。
ずっと、一緒だった。
学校をサボってバトルに明け暮れていた日々も。
リーグを制覇したときも。
あの日、ボールから自力で抜け出して、壁ごと吹き飛ばして自分をサカキのところから逃がしてくれたときも。
ピカチュウが自由をくれた。元気をくれた。
いつもそばにいて甘えてくれた。
いや、甘えていたのはこちらだったのかもしれない。
抱きしめるとぽかぽか暖かくて、ふわふわ柔らかくて、くりくりな丸い目を瞬かせて、小さく可愛らしい鳴き声を上げる。
撫でれば、もっともっとと身体を擦り寄せてくる。
離ればなれになるなんて、自分が逃がすだなんて、そんな日が来るなんて思いもしなかった。
しかし、サカキにとってはピカチュウは最重要マークの危険ポケモン。
ドアと言わず、壁という壁をぶち抜いて閉じ込められていたレッドの元にやってきたピカチュウを危険視しない人などおそらくいないだろう。
最後には建物を半壊にして夜の街へと飛び出したピカチュウとレッドだから、その後そこがどうなったのかなど知らない。
ただ、はじめに出されたポケモン保護条例の先頭に電気タイプのポケモンが並んでいたことから、相当な被害だったことは想像できる。
そんな優秀で、強いピカチュウ。
主人想いなピカチュウ。
グリーンへのメモを書いていたとき、手が震えてどうしようもなかった。
カタカタ揺れるボールをギュッと握りしめて、なんとか字になったメモ書きをボールと一緒にしまい込んだ。
そして、隙を見てグリーンのポケットに押し込んだ。
最後まで、ボールは揺れていた。
でも、そうするしかなかった。
きっと、また捕まったらピカチュウは以前とは比べものにならないほどの厳重体制で保管されることになるだろう。
そうしたら、また会えるかどうかも保証できない。
ならば、待っていてもらう。
ずっと昔に、小さい頃に出会ったあのトキワの森で。
また、自分が捕まえに行こう。
時間はかかるかもしれないけれど、きっと、必ず見つけ出す。
だから…
「ごめん、ね……待ってて…ピカチュウ…っ」
大きく息を吸い込めば、むせ返りそうなほどの緑の匂いが胸いっぱいに広がる。
上を見上げれば、大きく手を広げた立派な木々の隙間からキラキラと光が射し込んでくる。
耳を澄ませば、風が木々や葉、草を揺らす音だけが聞こえてくる。
時折それに混ざるガサガサという草むらを揺らす音は、野生のキャタピーか、それともピカチュウだろうか。
トキワの森は、今日も静かで、どこか神秘的だ。
「なぁピカチュウ…おまえ、ここでレッドに会ったのか?」
グリーンは歩きながらモンスターボールの中に収まるピカチュウに問いかけた。
トキワの森は天然の迷路と呼ばれるだけあって、最初のうちはグリーンも散々迷ったものだが、道を覚えてしまってからは今自分がいる位置もだいたいなら分かるようになった。
おそらく、今はちょうど森の真ん中あたりだろう。
足を止めてちらりと手に持ったボールの中を窺うが、ピカチュウはピクリとも反応しない。
グリーンは僅かに苦笑すると、ボールの召喚スイッチ押した。
眩い光とともに、草の上にちょこんと現れた黄色くて丸い生き物。
こんなに小さくてこんなに可愛らしい風貌をしているのに、その実力は生半可なものではないことは、レッドとのバトルで身をもって学んでいる。
「レッドが…おまえの主人がさ、おまえを逃がしてくれってさ…」
背を向けたまま動かないピカチュウに背後から声をかけるものの、ピカチュウは相変わらずピクリとも反応しない。
主人の命令は絶対。
それは主人に忠誠を誓ったポケモンにとっては何よりも優先すべきことである。
それでも、ピカチュウはそこから一歩も動こうとはしなかった。
グリーンは小さくため息をついてピカチュウの横に腰を下ろすと、その小さな頭をぽんぽんと優しく叩いた。
鬱陶しそうな視線だけがグリーンに向けられる。
「レッドはさ、おまえにどんな形であれ、無事でいて欲しいんだよ…」
レッドがどんな思いでピカチュウを託してきたのかは想像もつかない。
アイコンタクトで指示が出せるほどになるまで一緒に戦ってきた大事なパートナーならば、それを自分から手放す葛藤というのはどれほどのものだったのだろう。
「…愛されてんな、おまえ」
グリーンが頭をぐりぐりと撫でてやれば、その手はすぐにピカチュウの尻尾にはたき落とされた。
容赦なくはたかれた手は少し、痛い。
「なんだよ…俺のことは嫌いってか?」
思わず苦笑してそう言えば、ピカチュウは今度は顔までも背けてしまう。
"当然か…"
自分をこれ以上傷つけまいと、レッドは自らサカキの元に歩いていった。
主人を奪ったのは自分だと思われても仕方ない。
ピカチュウからしたらサカキと同様、自分も許し難い敵なのかもしれない。
「ごめんな…俺のせい、だもんな…」
グリーンはピカチュウから手を引くと、そのまま自身の前髪をくしゃりと掴んだ。
「悔しいよ…俺、何も出来なくて…レッドに守られて…情けねぇよ…」
「………」
「今すぐ助けに行きてぇ。でも、レッドがいる場所なんてまったく見当つかねぇ…どうすればいいか分かんねぇよ…」
「……チュゥ」
「だから、せめてレッドに頼まれたことだけでも…やろうって思って…ここまで、来た、けどっ…」
視界が滲むのは何故だろう。
肩が震えるのは何故だろう。
胸が苦しくて、言葉が上手く出てこないのは何故だろう。
「…っ、…それじゃ、俺は…行くから…元気でなっ」
早口にそれだけ言うとグリーンは立ち上がった。
自分にできるのはここまで。
あとは、自由の身になったピカチュウ自身が決めることだ。
そう思ってグリーンはピカチュウに背を向けて今来た道を戻ろうと足を踏み出す。
しかし、次の瞬間膝裏に衝撃がきて、グリーンは思わずその場に崩れ落ちた。
不意打ちの膝かっくんに耐えられる身体などグリーンは持ち合わせていない。
「って-!な、なんだ!?」
地面に両手をついたまま後ろを振り返れば、そこには目をつり上げてこちらを睨むピカチュウがいて…
「…?」
「ヂュー!」
その威嚇のこもった鳴き声で、今の膝かっくんの犯人はこのピカチュウだということが容易に分かる。
訳が分からずに目を白黒させるグリーンを一瞥すると、ピカチュウは再び突進してきた。
グリーンに…ではなく、グリーンが先ほど崩れ落ちたときに腰から外れて転がった、空のモンスターボールに。
自らの頭突きでボールのスイッチを押したピカチュウは、召喚されたときと同様、眩い光に包まれてその小さなボールの中に自らその身体を閉じ込めた。
「な…っ」
グリーンは絶句してしばらく動けずにいたが、ハッと我に返ると慌ててピカチュウの収まったボールの召喚スイッチを押した。
強制的に召喚されたピカチュウは不機嫌さを隠すことなくグリーンを睨み付ける。
「ビッカ!ヂュー!!」
ピカチュウは鋭く鳴くと、ボールへと伸ばされたグリーンの手を再び尻尾で叩いた。
唖然とするグリーンの前で、再び自分で召喚スイッチを押してボールの中へと閉じこもる。
「駄目だ…出ろ、ピカチュウっ」
震える指で再び召喚スイッチを押す。
「ヂュゥゥ!!」
今度は軽く電撃まで放って威嚇してくる。
グリーンがひるんだ隙に、再びピカチュウはボールの中へ。
「やめて、くれよっ……お願い…だからっ」
目の前がぐにゃりと歪んで、頬に熱い何かが伝う。
それはポタポタと草むらに大粒の雨を数滴降らせた。
「っく…俺じゃっ、おまえを守って…やれねぇんだよっ!分かって、くれよ!おまえ、俺といると危険…なん…だ、ぞっ!!」
胸にせり上がってくる何かのせいでうまく喋れない。
そう、自分がピカチュウを持っていることが分かったら、奴らは何としてでもピカチュウを奪いにやってくるだろう。
自分には、ピカチュウを守るどころか、自分を守る力さえもない。
もしピカチュウを奪われることになったら、自分はいったいどうすればいいのか。
考えるだけでも怖い。
グリーンは草むらに突っ伏したままボールの召喚スイッチを押した。
再び強制召喚されたピカチュウは、少しの間目の前で泣き崩れるグリーンを見ていたが、
「ビッカ!」
と一際大きく鳴くと、そのグリーンの頭をその尻尾で強くはたいた。
ついでに軽い電気ショックもお見舞いして、グリーンの頭をその小さな手でてしてしと叩く。
グリーンがゆっくりと顔を上げれば、目の前に茶色の大きな瞳が映った。
そのこぼれ落ちそうな丸い目は限界まで潤んでいて、木々の隙間から射す光が、その目を余計にキラキラと輝かせていた。
ポケモンが泣いているのなんて見たことがないけれど、今にも滴が零れそうだと、グリーンは滲む視界でぼんやりと思った。
ピカチュウはその小さな手を今度はグリーンの顔にまで持ってくると、その頬をぺちんと叩いた。
呆然とするグリーンを差し置いて、ピカチュウはグリーンから離れるとその場で帯電を始めた。
バチバチと、その小さな身体に電気が集まり始める。
どこからその莫大な電気を集めているのか不思議になるくらい、ピカチュウの周りの電気は膨らみ続けていた。
その大きさは、グリーンがレッドと戦ったときの比ではない。
目の前がチカチカして目眩がするほどの光の渦。
そして次の瞬間、耳をつんざくほどの轟音とともに、目の前が真っ白になった。
次いで身体を襲った衝撃波と、ビリビリと身体が、地面が震える感覚。
ピカチュウの電撃が落ちたのだと分かったのは、木々の間から、草むらの間からポケモンが一斉に飛び出したからだった。
バサバサと何かが飛び立つ音。ガサガサと何かがうごめく音。
なんとか戻ってきた視力で辺りを見渡せば、野生のピカチュウが怯えたように逃げていくのが目に入った。
平和なトキワの森に突如落とされた悪意ある攻撃。
これで森は、このピカチュウを受け入れないだろう。
「チュウ」
ピカチュウは小さく鳴くと、再びグリーンの元に戻ってきてその空のボールへと身体を寄せた。
先ほどの電撃に比べたら微弱な光がピカチュウを包んで、再びその身体をボールの中へ誘う。
「ばか…やろ……自分で居場所なくして、どうすん…だよ…」
グリーンはくしゃりと顔を歪めると、そのピカチュウが入ったボールをギュッと握りしめた。
「…もう、知らねぇからな……ばか…」
再びこぼれ落ちた涙がボールを濡らしたが、ピカチュウは相変わらずそっぽを向いたままピクリとも反応しなかった。
***
「グリーンさん、学校サボってどこ行ってたんですか!?」
「そうですよ!二日間も!いくら文化祭の後だからってたるんでますよ!」
「病欠じゃないってことくらい分かってるんですからね!」
次の日、二日ぶりに学校へ向かう途中で、グリーンはヒビキとコトネに捕まった。
結局、次の日はピカチュウを森に帰すために学校を朝からサボり、その次の日もなんだかんだで仮病を使って休んでしまった。
しかし考えても考えてもレッドを助ける案は浮かばない。
このような流れで結局三日目である今日、学校に行こうと重い腰を上げたわけである。
ピカチュウはあれから肌身離さず持っている。
ピカチュウが本気を目の前で見せつけてきたのだから、自分が本気にならないわけにはいかなかった。
とにかく、自分に何かできるわけではないけれど、このポケモンだけは守り抜こう、そう決意した二日間だった。
「で、グリーンさん、白状してください!何してたんですか!?」
「まさか女の人とイチャイチャキャッキャウフフしてたんじゃあ…!」
「えぇーー!!でもあり得るーーー!!」
「…おまえらは俺をなんだと思ってるんだ」
グリーンが考え事をしている間にも、勝手に話は進んでいく。
…というより、どんどん曲がった方へ進んでいく。
「あ、もしかしてグリーンさん、文化祭の時に負った怪我が酷くて起き上がれなかったとか…?」
「あのあと気絶しちゃいましたもんねぇ…。大丈夫でしたか?」
「あぁ…さんきゅ」
今度は一転して心配そうな顔をこちらに向けてくる後輩達に、なんと現金な奴らだろうと思うグリーンだが、その気持ちだけはありがたく受け取っておく。
「そうそう、結局シルバーくんに運ぶの手伝ってもらって…」
「っ、シルバー!おまえら!そのシルバーってやつと仲いいんだっけか!?」
グリーンは〝シルバー〟という単語に反応して二人に思わず詰め寄った。
すごい剣幕で迫ってくる先輩に、後輩二人は少しだけたじろぎながらも、お互いに顔を見合わせる。
「仲…いいのかな?」
「今思い返せばかなり一方的だった気も…」
首を捻り始めた二人に、グリーンは期待のこもった視線を向ける。
そうだ。何故気づかなかったのだろう。
あのサカキという奴とタッグを組んでいたシルバー。
彼とつながることが出来れば、もしかしたらサカキの居場所が分かるかもしれない。
「れ、連絡先とか聞いてねぇのか?」
「え?さすがにそこまでは聞いてないですよ」
苦笑したヒビキの答えに、グリーンはガクリと分かりやすく肩を落としたが、次のコトネの
「私知ってますよ~」
の言葉にガバッと勢いよく顔を上げた。
ついでにとなりのヒビキも勢いよく顔をコトネのほうへ向けた。
「まじか!?頼む教えてくれ!!」
「なんで知ってるのコトネ!?いつの間にそんな仲に!?」
「いやいや、シルバーくんがよそ見してる間にささっと盗んだだけだよ」
「盗んだ!?」
さらに愕然とするヒビキは置いておいて、グリーンはコトネに詰め寄り、そのまま両肩を掴んだ。
「頼む、コトネ…何でもするから…教えてくれ…!」
「きゃーグリーンさんったら節操なしぃ!」
「グリーンさんちょっとおぉおぉおぉおおっっ!!」
そして放課後、グリーンと後輩二人は例の事件があった裏庭へと集まっていた。
「…で、シルバーくんを呼び出せばいいわけですか?」
「あぁ、頼む…」
コトネはケータイを手で弄びながらグリーンに問う。
グリーンは真っ直ぐにコトネを見て、はっきりと答えた。
「呼び出すのはいいですけど、来るかどうか保証はできませんし、そもそもなんで呼び出すのか理由を教えてもらってないんですけど」
「何か重大な話でもあるんですか?電話でとかじゃ駄目なんですか?」
コトネに続いてヒビキも不思議そうに首を傾げる。
もっともな質問である。
しかし、グリーンにはそれに答えることは出来ない。
答えるということは、即ちこの後輩達も巻き込むということになるのだから。
黙ったままのグリーンを見てコトネは小さくため息をつくと、グリーンの目の前まで移動して、そこに腰を下ろした。
「それって、グリーン先輩がここでボコられたのと、6組のレッドって人がその次の日から学校に来なくなったのに関係があったりしますか?」
目を細めて紡がれたその言葉にグリーンは大きく目を見開いた。
驚いてコトネを凝視するも、コトネはその涼しげな顔を少しも崩さない。
「そのレッドって人、しばらく学校休むって連絡があったらしいです。グリーンさんが最近仲良くしてた人ですよね?」
グリーンは唖然としてしばらくコトネを見ていたが、不意に視線を下に落として申し訳なさそうに呟いた。
「悪ぃ。何も…言えないんだ…」
「じゃあそれだけヤバイことにグリーンさんが首を突っ込んでるんだってみなします」
「………」
労りも心配も無い。そんな声音。
淡々と言い切ってきたコトネに、グリーンは落としていた視線を恐る恐る上げた。
視線の先には、ケータイを弄るコトネの姿。
「出来ないなら別に説明はしなくていいです。私たちは勝手に動きたいように動くだけですから。ね、ヒビキくん」
「うん」
何でもないように顔を見合わせて頷き合う二人の姿に、グリーンは小さく苦笑をこぼした。
なんて有能で、なんて先輩想いで、なんて頼もしい後輩なのだろう。
本当に、自分にはもったいないほどだ。
そんな自嘲じみたグリーンをちらりと横目で見ると、コトネはケータイを耳元へと持って行った。
どうやら登録先に電話をかけたらしい。
しばらくその状態で固まっていたコトネだったが、不意ににっこりと人好きのする笑みを浮かべて、言った。
「…あ、もしもしー?」
***
シルバーは、今何故自分がこんな状況になっているのか分からなかった。
自分は確か、コトネに呼び出されたはずだった。
決して男二人に呼び出された訳ではない。
そして何故か一歩離れたところで、その自分を呼んだはずのコトネが悪魔のような笑みを浮かべてこちらを見ている。
どういうことだと叫ぼうにも、目の前の男二人の圧迫感がそれを許さない。
ちなみに背中は見事に壁についていて、これ以上の後退を許してくれない。
いわゆる絶体絶命というやつである。
「なぁおまえ、サカキってやつの知り合いなんだろ…」
「ねぇ君はいったいコトネの何なの?」
「居場所を教えろ」
「さっきコトネから連絡あったよね。今すぐその履歴削除して」
「もしはっきり分からないなら、いる可能性があるって場所だけでいい」
「まさかアドレス帳に登録…なんてことはしてないよね?」
「頼む、急いでるんだ」
「早く!急遽削除して!」
「おいヒビキちょっと黙ってろよ」
「グリーンさんこそ、今大事な話してるんです」
「俺のほうがもっと大事な話してんだよ!!」
はじめはこちらを問い詰めいていた二人だが、だんだんとこちらを無視して口論まで始めてしまった。
シルバーはますますどうしようもなくなって、へたりと座り込んだまま途方に暮れてしまう。
しかし、涙ぐみそうになってしまうのをグッと耐えて、目の前の二人を精一杯睨み付けた。
「い、いい加減にしろよ!俺は…暇じゃないんだ!」
精一杯の叫びは目の前の男二人には届かなかったらしく、口論は止まらない。
しかし、少し離れたところにいたコトネが静かにシルバーのほうへと歩み寄ってきた。
「とりあえず質問に答えてもらってもいい?」
「………なんでそんなこと…」
「…いいのかな?『マニューラ』…」
「っ!」
そのポケモンの名前が出てきた途端、シルバーの顔がさっと青くなる。
コトネは僅かに口端をあげると、さらにシルバーのほうに顔を寄せた。
「サカキって人とあなたの関係は?」
「………」
「親子。違う?」
「…っ!」
ビクリと反応したシルバーに、コトネは「やっぱりね」と呟き、小さく息を吐いた。
「グリーンさんはそのサカキって人の居場所が知りたいわけでしょう?知ってるんじゃないですか、この分だと」
あの後夜祭の時、シルバーは「先に家に帰ってろと言われた」とコトネ達に言った。
同じ家に住んでいるのなら、親子の可能性が高いと思うのは当然である。
しかしそんなことを知らないグリーンは、ヒビキと言い合うのも止めてポカンと口を開けていた。
「…は?冗談だろ…こ、子持ち…?」
グリーンの頭の中でサカキの顔とレッドの顔が交互に映し出される。
そして目の前の赤髪の、自分とそんなに年齢の違わない少年を視界に入れた瞬間、グリーンは思わずその少年、シルバーの胸ぐらを掴みあげていた。
「おま、え…どういうことだよ……おまえの親父はどういうつもりなんだよ…!」
「…?」
いきなり恐ろしい剣幕で掴みかかってきたグリーンに、シルバーは目を白黒させる。
どういうつもりなのかと聞かれても、シルバーには何がどういうつもりなのかさっぱり分からない。
ただ、自分の親であるサカキが何かグリーンを怒らせるようなことをしたのだろうということだけは、なんとなく察した。
「…おまえ、親父と住んでるのか」
「住んでるけど…親父はほとんど家には帰ってこない。ここ数日は、全く帰ってきてない…」
微妙に声が震えているのは、グリーンへの恐怖か、それとも他の何かのせいか。
シルバーは目線を反らして小さく項垂れた。
「お、俺の親父が…何かしたのか…?」
「…何かしたのレベルじゃねーよ…」
ドスのきいた低い声に、シルバーの肩がさらにビクリと震える。
グリーンは胸ぐらを掴む手を離すと、その手をシルバーの顔の真横、壁へと叩き付けた。
「場所、教えろ。おまえの親父がいそうな場所、全部」
「…そ、そんなの…」
「シルバーくん、ホントに悪いと思ってるんだけど、シルバーくんに拒否権はないんだよ」
少しの間黙っていたコトネが再度口を開く。
シルバーはコトネと視線が合った途端、背中に冷や汗が伝うのを感じた。
「い、いい加減に…」
「『マニューラ』、『タウリン』…まだ言う?」
「…!」
今度こそ泣きそうな顔になってシルバーは歯噛みした。
「そんな…俺を脅して…どうするつもりだよ…」
「脅してるつもりなんてないよ。ただ、協力して欲しいってだけ。協力してくれるならこれ以上誰にも何も言わないし…」
困ったように首を傾げるコトネは、シルバーから見たら悪魔にしか見えなかった。
知らない間に盗まれていた連絡先。
いきなりかかってきた電話で脅され、呼び出された後もこうして脅され、シルバーにとってはコトネはもはや驚異でしかない。
「でもグリーンさんの口ぶりだと、あなたのお父さん、ずいぶんとやばいことしてるみたい。…何してるか、自分のお父さんのこと、知りたくないの?」
「…っ!!」
自分の父が自分に何かを隠しているのは知っていた。
こそこそと良くない動きをしていることも知っていた。
しかし、知るのは…怖かった。
「言ったでしょ。拒否権は無いって。知りたくても、知りたくなくても、あなたには協力してもらう。見たくないものがあったら、目を閉じて耳をふさいでればいい」
コトネはそう言って、優しく微笑んだ。
***
「っうぅ…、…ぁ」
今はいったい何時頃だろうか。
そんなことをぼんやりと考えながら、レッドは横たわるベッドの上からカーテンの隙間を通して外を窺った。
この部屋の窓からは夕日が見えない。
しかし、突然身体を巡り始めた熱に、夕日が完全に沈んだということだけは分かる。
「はっ、うっ…あぁ…」
これだけ毎日繰り返しても決して慣れることはない、この瞬間。
シーツの中に潜り込んで、目を瞑って自分の身体をギュッと抱きしめる。
だんだんと柔らかみを増していく身体に、違和感と、同時に痛みが伴う。
ぜぇぜぇと苦しそうに喘ぐレッドのそばには、誰もいない。
一人でこの瞬間を迎えるのがこれほど心細いことだとは思っていなかった。
いつもならピカチュウがいた。
そして、もしあそこでグリーンと別れていなければ、もしかしたらこの瞬間にそばにいて、頭を撫でてくれていたかもしれない、抱きしめてくれていたかもしれない、なんて…
そんなことを考えるレッドは、よほど熱に浮かされているらしい。
自分でもそれを自覚しているのか、レッドは苦しそうな表情の中にも苦笑を浮かべた。
「グリーンっ……グリー、ン…」
口に出して名前を呼ぶだけで何故か涙が溢れてくる。
会いたい。
でも、絶対に、会いに来て欲しくは、ない。
グリーンに傷ついて欲しくなくて、自らここに来たのだから。
しばらくシーツに目頭を押しつけたまま動かずにいたレッドだったが、だいぶ落ち着いてきたのか、ゆっくりと息を吐くと上半身だけをシーツから起こした。
そのまま視線だけを窓の外に向ける。
先ほどまで少し紫がかっていた空は、もう漆黒に色を変えていた。
グリーンはピカチュウをちゃんと逃がしてくれただろうか。
ピカチュウは元気にやっているだろうか。
そんなことをぼんやり考えていると、不意に部屋のドアが開いた。
無駄だと思いつつも、シーツにしっかりとくるまって肩までを隠す。
「今日は随分と早いんだね…」
「あぁ、明日朝早いのでね。その分繰り上げて来させてもらったよ」
別に遅くに来て早く帰ればいいのにとレッドは思うが、来てしまったものはしょうがない。
恨めしそうにサカキを一瞥すると、レッドはそのままベッドの端まで身体を引きずっていき、サカキに背を向けて座り込んだ。
これが精一杯の抵抗なのだというのがなんとも悲しい。
どう足掻いても部屋から出られない以上、体力消費を伴わない抵抗くらしかレッドには出来なかった。
「しかし、また一足遅かったようだ。もう変わってしまったんだね」
「おかげさまで…」
レッドは小さく呟くと、また今宵も始まるであろう、吐き気を覚えるような行為を想像して、静かに目を閉じた。
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